No.1294 ≪能登半島地震と29年前の阪神大震災に学ぶ≫-2024.1.10

2024年1月1日16時10分 M(マグニチュード)7.6、最大震度7.0の巨大地震が能登半島で発生しました。犠牲になられた方々のご冥福をお祈りするとともに、被災された方々の平安を祈ります。
2020年ごろから能登地方では大きな地震が頻発しており、なかでも2022年6月にはM5.4、2023年5月にはM6.5(震度6強)と立て続けに発生していました。日ごろから用心はされていたでしょうが、まさか新年のお祝いを楽しむ正月元旦に起きるとは。詳細は今後明らかになってゆくと思いますが、できる限りの支援をしたいと思っております。

さらに、翌日の1月2日には羽田空港でJALと海上保安庁機が滑走路上で衝突炎上するという大事故が発生しました。海上保安庁機は能登半島地震の支援物資を満載して出発するところだったと聞きます。JAL機は機体が炎上しながらも乗員乗客379名全員が退避して無事だと聞いて、体の力が抜けてゆくような奇跡でした。
年間100回ほど飛行機を利用する身として他人ごととは思えませんでした。機内に充満するガス、燃えさかる翼。全員が「死」を覚悟されたことでしょう。しかし、公開された動画を見ると実に冷静に行動されており感動しました。残念ながら海上保安庁機は機長を除き5名の方がお亡くなりになりました。

いつも年始に思い出すことがあります。1995年1月17日 午前5時47分に発生した阪神大震災です。
Wikipediaによると6,400名以上の方がなくなり、約44000名の方が被災されました。全壊家屋10.5万棟、被災家屋約40万棟。阪神高速が横倒しになり、高層ビルが大きく傾斜したり倒壊したり、重みで階が押しつぶされたマンション多数。神戸の長田区は火の海で、一面焼け野原で駅から海が見えました。

2日前の1月15日の成人の日に久しぶりに兵庫県川西の実家に泊まり、母から「厄年なので厄払いをするよう」言われ、翌日の16日に大阪のお初天神社でお祓いをしていただき、友人と神戸で泊まる約束をしていましたが互いの都合が悪くなり延期しました。もし、予定通り神戸に泊まっていたら私の人生は確実に今とは違うものになっていたと思います。

大阪のホテルに泊まった翌日、1月17日早朝、激震とけたたましい非常ベルで起こされ、薄明りの室内に目をこらすと、枕元にあったはずのテレビが反対側の壁にあたって落ちており、据付の冷蔵庫は横倒しになっていました。館内放送に従いロビーに降りましたが、何が起きたのか情報が何もありません。地震よりも仕事(鹿児島での経営支援)の方が気になり、ホテルスタッフに無理を言って部屋に戻り支度を整えチェックアウトしました。
やっと捕まえたタクシーの運転手さんに状況を聞くと「神戸で地震があったみたいですね。なんか阪神高速が横倒しになっているみたいですよ。けが人はいないそうです」とのこと。
阪神高速が横倒し? けが人なし? 疑問に思いながら、やっとの思いでついた空港のテレビは一面火の海の神戸の街を映していました。電話は不通で家族にも連絡がとれません。当時は携帯電話は普及していませんでした。相当な地震が起きた割に死者は3人だったので不謹慎にも不幸中の幸いだったなと思いながら鹿児島につくと、死者は30人に増えていました。鹿児島では地震の話題すら出てきませんでした。現場から離れれば離れるほど関心が薄れるものだと痛感しました。

帰路伊丹空港につくと死者は3000人に膨らんでいました。鉄道は全て運休、高速道路は全面通行止め。やっとの思いで臨時バスで大阪駅につくとタクシーを待つ長蛇の列です。するとタクシー運転手が「(普段なら1000円程度でゆける)〇〇方面 1人5000円、4名相乗り」の条件で客引きをしていました。足元を見た商売をしていたこのタクシー会社は1ヶ月もしない間につぶれたそうです。

翌日(1月18日)、会社にゆき出勤できた社員で手分けして、社員とお客様の安否確認を行いました。社員は全員無事でしたが、電話が不通なのでお客様の安否確認は難航しました。わずかに動いている移動手段を乗り継ぎお客様を訪問すると、地震で壊れた社屋の駐車場でドラム缶に薪をくべて暖を取っておられました。挨拶もそこそこに、何が起きたか、その時どうしたのかを熱心に何度も話してくださいました。話すことで自分を取り戻しておられるのだと思いじっと聞いていました。次のお客様もその次のお客様も熱心に話してくださいました。

ライフラインが壊滅して店はどこも開いていません。ひときわ寒かったあの時、あたたかい「おでん」を売るライトバンがありました。値段をみて驚きました。ウィンナー1本5000円、大根1切1000円、たこやき6個2000円。デフレの中でのハイパーインフレです。それでも買えるだけましです。売切れれば買いたくても買えないのですから。

阪神大震災は「想像を絶する大惨事がある日突然に起きる」こと、私たちは「大惨事を乗り越える知恵を持っている」ことを気づかせてくれました。何があっても乗り越えられるポジティブな精神を持つことがいかに大事かを教えてくれました。
ビジネスでは電話が不通で連絡が取れない不安を解消すべくPHS、携帯電話が爆発的に普及し、今のスマホ社会に繋がっています。Windows95の発売とともにインターネット社会が普及したのも1995年です。ネット社会、ネット経済を作り上げました。
NPOやボランティア組織が誕生し、そこに多くの若者が参加していったことがいまのSDGS社会を支えています。ライフラインのストレス耐性も随分強化されました。

この時の改善が、その後に起きた大きな大惨事をミニマム化したと思います。2001年9月11日「NY世界同時多発テロ」、2008年9月8日「リーマンブラザーズショック」、2011年3月11日「東日本大震災」、2019年12月30日「新型肺炎コロナパンデミック」、2022年2月24日「ロシアによるウクライナ侵攻」。
誰もが重宝しているLINEは2011年の東北大震災の時に、従来の通信網が途絶してもコミュニケーションが取れるアプリとして開発されました。
大惨事を経て社会は確実に進化します。一時的に深刻なダメージはあってもそれを乗り越える智慧が働き進化するのです。
経営者にとって、不安を放置すると不安が不安を呼び精神が不安定になるリスクが高まります。不安をポジティブに予知力ととらえ、BCPに書き出すことによってアイデアが生まれ、改善が進み、先手を打つ事で解消できます。

能登半島地震で犠牲になられた方々、被災された方々に心を寄せて。