No.1105 ≪世界恐慌に学ぶ企業の生き残り≫-2020.3.24

新種のインフルエンザに過ぎない「武漢ウイルス」は、その感染力で指定伝染病となり、世界をパンデミックに陥れました。世界は封鎖され、人が集う事業は禁止され、その経済的損失は計り知れないものとなってきました。オリンピックも延期され、これから起きる経済停滞は想像 を絶するに余りあります。

1929年9月3日ダウ平均株価は史上最高値の381$をマークしました。その後乱高下を繰り返 し10月29日(火)に230$まで下落し「ブラックチューズデー」と呼ばれ、後々の世界恐慌の始まりと言われています。この時の下落率は39.6%でした。一週間の損失額は、なんとアメリカ連邦政府の年間予算の約10倍、第一次世界大戦の戦費を超えたのです。しかし、その後、市場は持ちこたえ、乱高下を繰り返しながらも緩やかに下落し、ついに1931年4月以降は41$まで下落し、最高値381$からの下落率は89%となりました。世にいう「世界恐慌」です。

今のアメリカのダウ平均で起きていることもよく似ています。2020年2月12日(水)ダウ平均株価は史上最高 値の29,551$を付けました。トランプ効果を象徴する出来事です。その後、新型コロナ・ウイルスの感染拡大が世界中で顕著になり、明らか なパンデミック状況にありながらもダウ平均株 価は堅調を持続しました。ところが、3月9日(月)に2,013$下落し、その後持ち直しましたが、WHOのパンデミック宣言後の3月12日(木)に2,353$下落。反発後の3月16日(月)に2,997$下 落。反発後 3月19日(木)に1,339$した落し、2 万ドルを割り込みました。翌日の3月20日(金)は914$下落し19173$になりました2月12日の最高値と直近を比較すると35.1%の下落率になります。ほぼ大恐慌の39.6%に近い下落率です。この現象をどう読むかは非常にむつかしいですが、1929 年の大恐慌に大活躍し、片や破産、片や成長した商社を例に教訓としたいと思います。神戸発祥の鈴木商店と大阪発祥の岩井商店です。今は、双日と名を変えて成長しています。詳しくは「双日歴史観」(https://www.sojitz.com/history/jp/chronolo gy/)を訪問してください。

岩井商店の岩井勝次郎は「訓示」を発令し、第一世界大戦の好況反動不況を乗り切りました。以下、「双日歴史観」より抜粋します。
「1896年、岩井勝次郎が先代から独立し「岩井商店」を開業した。大正8(1919)年に第一次世界大 戦が終了すると、岩井勝次郎は反動不況を予測し、訓示を制定。これは勝次郎の卓越した企業家精神をもとに、事業の永遠の発展と貿易商として進むべき大道を明らかにしたもので、その精神は現在の最勝会企業にも語り継がれている。

家訓では冒頭に、幹部社員は時勢へのゆたかな先見性をもち、社員に対して明快で統一的な仕事の方向づけをするとともに、組織の上下左右に風通しが良いコミュニケーションをはかることの重要性を示している。
そしてビジネスは自社本意ではなく、まず取引先の満足を考え、広い視野でマー ケットを志向することを求めた。常に社員や資金など経営資源と営業展開とのバランスに心がけ、思いがけない恐慌にも動じない態勢を堅持しなければならないとし、かつ「狭き深き」を主眼とし、重点主義の基本を示した。また投機の禁止、登用の公平性、書類の整備などを説いている。そして最後に、会社にとってプラスになることは上下を考えず意見を具申せよと結んでいる。
『・幹部は各社員に対し、時勢の趨向を指示し、統一的の方針を執る事に注意すると共に、意思の疎通を怠るべからず。
・商売は自己のみに非らずして、相手方と相互たる事を忘れるべからず。
・我々貿易商は、殊に人と資金と商売との均衡に 注意するは勿論、恐慌の場合に対する 準備を怠るべからず。
・商売を為すが為の危険範囲は、止むを得ざるも利益を目的とする投機は、断じて之を為すべからず。
・我営業の方針は、狭く深きを主眼とし、広く浅きを避けざるべからず。
・社員の任用は、人物本位を旨とし、情実に流れざる様、常に注意せざるべからず。
・社員はなるべく内外人の区別を為さざる事に注意すべし。
・我々貿易商に於ける通信たるや、あたかも人体に於ける血脈と同様にして、もし之を怠る場合には、直ちに意思の疎通を欠き、損失を招く恐れあれば、いやしくもゆるがせにすべからず。
・書類及見本の紛失したる場合には、意外なるさしつかえ、又は損失を蒙りし実例とぼしからざれば、完全に整理すべし。』

本訓示の趣旨にもとり、又は商店の利害に関する事柄は、身分の如何を顧みず、遠慮なく、上役に意見を開陳すべし。」

一方、鈴木商店は、明治7(1874)年に鈴木岩治郎が砂糖商として創業。砂糖、石油を核にして神戸八大貿易商の一つとして数えられるが、明治27(1894)年に岩治郎が急死。夫人の鈴木よねが大番頭の柳田富士松と金子直吉に経営を託し、事業継続しました。第一次世界大戦後の反動不況や関東大震災のあおりで台湾銀行に依存しすぎた鈴木商店は破綻しました。同様に、「双日歴史観」より抜粋します。

「金子直吉は、台湾総督府の後藤新平との知遇を得て台湾産樟脳油の販売権を取得。神戸で樟脳工場を設立し、その後、次々と製造事業を設立し、金子直吉は“煙突男”と称されるようになる。北九州大里地区においては、大里製糖所を設立し、製糖事業にも進出。その後、同地区では麦酒、アルコール、小麦、金属等の事業を展開、対岸の彦島地区においても化学、金属、鉄道事業に進出し、関門海峡を挟んで鈴木商店の一大工業団地を建設する。

鈴木商店は第一次世界大戦前後に重化学工業に積極展開し、明治38(1905)年には神戸製鋼所を、大正5(1916)年には播磨造船所(現・IHI)を、大正 7(1918)年には国産技術により初めての人造絹糸の量産化に成功し、帝国人造絹糸(現・帝人)を設立する。

第一次世界大戦が勃発すると、金子直吉は大戦の長期化と物不足を予測し、「Buy any steel, anyquantityat any price」と一斉に買いの指令を出し、大投機を仕掛け巨額の富を得る。またロンドン支店長の高畑誠一は「英国政府といえども一介の客に過ぎぬ」と連合国に対して強気のビジネスを展開し、食料、鉄、船舶等を大量に供給した。英国のチャーチル海軍大臣(後の首相)も、「皇帝(カイゼル)を商人にしたような男だ」と恐れたという。
またスエズ運河を通る船の 1 割は鈴木の船といわれ、様々な伝説的なエピソードが残っている。そして大正6(1917)年、鈴木商店は当時のGNPの1割に相当する売上を記録し、日本一の総合商社となった。

金子直吉の事業意欲は衰えず、鈴木商店は約80もの事業会社を設立した。その中には現在の神戸製鋼所、帝人、太陽鉱工、IHI、サッポロビール、日本製粉、ダイセル、J-オイルミルズ、日油、昭和シェル石油、三井化学、商船三井、鈴木薄荷、日本精化、日塩、ニチリン、東邦金属、三菱レイヨン等、現在のリーディングカンパニーにつながる企業も含まれている。
鈴木商店は第一次世界大戦後の反動不況や関東大震災など事業環境の悪化もあり、メインバンクであった台湾銀行からの借り入れが膨張していた。そして昭和金融恐慌を機に、昭和2(1927)年に鈴木商店は破綻してしまう。」

この2社の行動に生き残りのヒントがあると思っています。皆さんの感想はいかがですか?