No.1296 ≪「天」という概念の復活≫-2024.1.24

能登半島地震の一刻も早い復興と被災された方々の安寧を心より祈ります。支援にかかわってくださっているすべての方々に限りない尊敬と感謝を申し上げます。

さて、最近の金まみれの政界スキャンダルや闇バイトによる殺人・強盗・詐欺、D自動車の認証偽装、B社の修理水増し詐欺、J社のスキャンダル、K社のコロナ補助金過大請求、F社システムによるイギリス郵便局長冤罪事件等「人間の劣化がひどい」とあきれ返ります。一方、能登半島地震の惨状に突き動かされて損得度外視、命がけで支援する企業や個人をみて「人間ってすごい」と感動します。ばれなければやったもの勝ちと「天」を汚す勢力と、外聞に頓着せず困った人に手を差し伸べる「天」に愛される勢力が渾然一体となっている時代は珍しいのではないかと思います。

では、自然界の本質は何でしょうか? それは、人間も含めて関係的存在になることで循環し永続する仕組みになっています。一つとして単体又は一人では安定的に永続しないのです。例えば、空気の主成分である酸素はO(オー)原子が2つ結びついて酸素になり安定しますし、水はH2Oで二つの水素原子と酸素原子が結合することで安定し循環しています。東洋思想も陰と陽が関わりあうことで循環し安定しています。陰陽も「太極」だけでは不安定で発展しないのです。生命体はオシベとメシベ、オスとメス、男性と女性が存在することで安定し循環し永続します。プラスとマイナス、光と影、作用反作用、経営者と社員、国家と国民、夫と妻、親と子、教師と生徒、店とお客様、、、 

そして、それらはどちらが主体でどちらが客体であるかにこだわりません。どちらかがこだわりだすと、循環しなくなり、永続しなくなってしまいます。ところが人間界では、無意識のうちに自分(主体)は優れているので相手(客体)は受動し従属すべきだと勘違いしている利己的人間の多いこと多いこと。中でも会社の中ではさらに顕著です。主客一体で善循環し永続するのに、不自然な盲従関係を望むのは恐れ多くも「天」の仕組みを無視する破滅者です。

功成り名を遂げて有名になりたいと願う心は経営者であれば皆が持っている願望です。
ある経営者A社長のエピソードがあります。A社長は若くして才能に恵まれ、自らも寝食を忘れて働き、人の数倍努力して富と名声を手に入れました。事業も軌道に乗り、やることなす事すべて成果を上げました。スポットライトを浴びて周囲からちやほやされ、自分もそれなりの人間になれたと自負しました。しかし、好事魔多し。お客様から次々と苦情が寄せられるようになりました。A社長は苦情の原因は言うとおりにやらなかった社員のせいだとその都度社員に責任を取らせました。自分でもできないことを社員にやらせるA社長に納得できない社員達は苦言を呈しました。しかし、A社長は待遇面で自信を持っていたこともあり矛盾した勝手な都合を主張し、「ここは私の会社だ、いやなら辞めろ」と意に添わない社員を責め立てて攻撃し、排除してゆきました。最初は我慢していた社員達も有能であればあるほど距離を置き、いつしか離れてゆきました。それでもA社長はうまくゆかないのは社員のせいで自分は間違っていないと信じて疑いませんでした。

A社長のタイプの経営者は皆さんの周囲にも少なからずおられるのではないですか? 勢いのあるうちは何とかなりますが、些細なほころびで一気に機能不全を起こし、どん底に突き落とされてしまうものです。それでも自分は間違っていない、失敗したのは社員だと主張されます。ついに、家族からも見放され初めて気づかれるかもしれませんが、気づいた人は救われます。天の仕組みを全てを失うことで身をもって知ることができたのですから。謙虚に自分を見つめ、この世にやってきたミッションを本気になって実践し、新たな本当の成功、つまり人間としての根源的欲求である内的自己実現を成し遂げられるからです。内面の充実はあらゆるものを寛容し包容し受容し一体化することで滑らかな循環を実現し躍動しながら永続することができるようになります。前職のタナベ経営ではそれを「原因自分論」と学び、倫理法人会では「苦難は幸福の門」と学びました。
それでも、その時が来るまで気づかれない方がおられます。「天」という概念を取り戻されるまで待つしかありません。

私の尊敬する師匠の一人、昨年2023年5月1日に亡くなった神渡良平師が48歳の時に著作「中村天風の世界 宇宙の響き」(致知出版社刊)の中の一節「天という概念の復活」(P414)をご紹介したいと思います。

「論語」にこんな一節がある。「徳は孤ならず。必ず隣あり」
徳のある行いは孤立していない、必ず共感し共鳴する人が現れて、拡がってゆくものだという。問題は共鳴する人が現れるまで、自分が孤独にどれほど耐えることができるかである。世の中が薄情なのではなく持続できるかどうかだ。自分のことは棚に上げて、人を責めるのが私たちの現実だが、まず自分から実践し、持続しなければならない。だから孔子はこう言って私たちを励ましてくれる。
「天を怨まず、人をとがめず」
人間を相手にしているとどうしても不平不満が出てしまう。期待したけれども裏切られたと思い、人が信用できなくなる。
そして終いには自分の表情も暗く険しくなる。ところが、天を相手にして、物事を見るようになると、人間界の事で一喜一憂することはなくなる。人が見ていようと見ていまいとそんなことに関係なく自分の誠心誠意が尽くせるようになる。(中略)自分が納得行くまで真心を尽くすことができるようになる。自分のうちに住む「天」をごまかさなくなる。そういう意味で、「天」という概念を私たちの日常生活にもう一度取り戻すことは自分たち自身の精神の健全化のために欠かせない事のように思える。(中略)天の現身であることを自覚し、弱気にならない限り、どんな逆境にも立ち向かって往ける。立ち向かうことさえできれば自ずから問題は解決される。その結果、その人は一回りも二回りも大きくなる。(引用終わり)

「天」という概念を取り戻す「一灯照隅」道を歩みたいと思います。