No.1248 ≪トルコ巨大地震に哀悼の意をささげます≫-2023.2.15

2023年2月6日(月)現地時間午前4時17分、トルコ南東部のシリアとの国境付近を震源とするマグニチュード7.8の巨大地震が起きました。わかっているだけで35,000名以上の方がなくなり、被害の全容はまだわかっていません。犠牲になられた方に哀悼の意をささげ、被害にあわれた方の平安を祈ります。
23年前(1999年8月17日現地時間3時02分)にもイスタンブールに近い北西部で、マグニチュード7.6のイズミット地震が発生し大きな被害を出しました。

1995年1月17日午前5時17分、マグニチュード7.3の阪神淡路大震災が起きた時、トルコは救援隊を出してくれました。その恩返しとしてイズミット地震の救援に向かいました。また、日本が2011年3月11日14時46分に発生したマグニチュード9.0の東日本大震災の時には、トルコは長期間の救援隊を派遣してくれました。
今回の地震では日本の行動はとても速かったです。私たちもすぐできる寄付・募金支援をやってゆきたいと思います。

さて、トルコと日本はとても仲が良く、トルコ人の中には「自分は日本人だ」と信じている人もいると言います。
第一次世界大戦では同盟国と連合国に分かれて戦ったこともありますが、すぐに国交を回復し、交流が活発になりました。それにはわけがあります。皆さんもよくご存じの「エルトゥールル号の悲劇」です。時は1886年にさかのぼります。

明治政府は近代化と西洋化による文明開化と富国強兵を推し進めるうえで、皇族初の外国訪問として小松宮親王夫妻を欧米に派遣し、オスマントルコにも立ち寄ることになりました。国交はなかったものの小松宮親王は皇帝・アブデュルハミト2世に謁見し厚遇を受けられました。帰国後この報告を受けて明治天皇は感謝状と大勲位大綬章を皇帝に届けました。皇帝はその返礼に600名を超える親善使節団を派遣することにしました。
1889年7月14日、オスマン帝国海軍の航海訓練を兼ねてエルトゥールル号(全長76m)は、イスタンブールを出港。困難の末、神戸港を経由して1890年6月7日に、横浜港に到着しました。司令官オスマン・パシャを特使とする一行は6月13日に皇帝親書を明治天皇に奉呈し、オスマン帝国最初の親善訪日使節団として歓迎を受けました。
エルトゥールル号はイスタンブール出港以来、艦や乗員が消耗、資金不足・物資不足で、多くの乗員がコレラに見舞われたため、なかなか日本を出港できませんでしたが、9月15日になってようやく横浜出港の目処をつけることができました。
しかし、日本側は台風の時期をやり過ごすように勧告しましたが、その制止を振り切り帰路についたのです。エルトゥールル号が派遣された裏にはイスラム教の盟主・オスマン帝国の国力を誇示したい皇帝の意志が働いており、出港を強行したのも、海軍の弱体化を流布されることを危惧したためと言われています。
9月16日21時ごろ、折からの台風による強風にあおられ紀伊大島の樫野崎に連なる岩礁に激突、座礁したエルトゥールル号は、機関部に浸水して爆発し22時半ごろに沈没しました。これにより、司令官オスマン・パシャをはじめとする乗組員650名のうち587名の犠牲者を出す大惨事がありました。
その時、大島村人の迅速な救出で69名のトルコ人が助かり、貧しい村でありながらトルコ人の為に非常食だった米や鶏を潰してふるまい、献身的な介護でトルコ人は回復しました。
生存者の2名が、大島港に停泊中の防長丸で連絡のために通訳のいる神戸港へ向かい、その報を受けた県職員が停泊中のドイツ海軍の砲艦「ウォルフ」号にのり大島港に急行し対応しました。その後駆けつけた軍艦八重山丸に生存者を乗せ神戸の和田岬消毒所へ搬送・収容されました。大島村の沖村長は県を通じて日本政府に通報し、それを聞いた明治天皇は政府に可能な限りの援助を行うよう指示しました。各新聞は衝撃的なニュースとして伝え、日本全国から弔慰金が寄せられ、トルコの遭難者家族に届けられたのです。回復した生存者全員を軍艦「比叡」「金剛」に乗せて、トルコに送還されました。

時は流れ、1985年3月17日。イラン・イラク戦争の最中、イラクのサダム・フセィンが「今から48時間後に、イランの上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落とす」と無茶苦茶なことを世界に向けて発信しました。
各国は自国の軍・民間救援機を出して、自国民を救出していました。日本政府は素早い決定ができず、自衛隊は海外派遣不可の原則のため動けず、JALは「イランとイラクによる航行安全の保証がされない限り、メヘラーバード国際空港行きへの臨時便は出さない」とし、在イラン邦人215名は出発ロビーで、誰にも助けて貰えない危機的状況に陥りました。
イラン駐在大使 野村豊が、トルコのビルレル駐在大使に窮状を訴えたところ、ビルレル大使は「わかりました。ただちに本国に求め、救援機を派遣させましょう。トルコ人なら誰もが、エルトゥールル号の遭難の際に受けた恩義を知っています。ご恩返しをさせていただきましょうとも。」と答えた。
大使の要請を受けたトルコ航空は自国民救援のための最終便を2機に増やし、機長オルハン・スヨルジュ(2013年2月24日死去)らがフライトを志願。215名の日本人はこれに分乗し、期限ぎりぎりで危機を脱することができました。タイムリミットの75分前でした。オルハン機長はトルコ領空通過時点で「よーこそ、トルコへ」とアナウンスしました。それを聞いた日本人乗客は抱き合って歓喜の声を上げたそうです。
全員、トルコ経由で無事に帰国できたのです。ちなみにトルコ機を日本人救出優先に回したため、この救援機に乗れなかったトルコ人約500名は、陸路自動車でイランを脱出することとなりました。それでも苦情が出なかったそうです。

親愛の情を何らかの形で表したいと思います。