No.1310 ≪「34年ぶりの円安」のおさらい≫-2024.5.2

遂に為替が34年ぶりに1$=160円超の円安になりました。この機会に為替の歴史をおさらいしたいと思います。

エズラ・ボーゲル著「JAPAN AS NO.1」が大ヒットした頃、アメリカは双子の赤字(貿易赤字と財政赤字)に苦しんでいました。レーガン大統領はインフレ退治のために高金利政策をとりましたが、その反動でドル高を招き、アメリカは債務国に転落してしまいました。
そこで1985年9月22日(日)密かにニューヨークのプラザホテルに集合したG5財務首脳はドル高による貿易収支の赤字に苦しむアメリカ(レーガン大統領)を支援する意味でドル安への是正に合意しました。世にいう「プラザ合意」です。当時の蔵相竹下登氏はゴルフに行くと言ってマスコミを煙に巻いたとか。1$=230円が3か月後には120円の超円高となり、円高不況で苦しみました。
同時に円高に対応して製造業を中心に生産の海外移転が急速に進み、グローバル化が本格化しました。中でも人件費の安い中国をはじめ、ASEAN、NIESエリアへの進出が加速し、プラザ合意以降の10年間で173の生産拠点が設置されました。メーカーの要求に応じて進出した関連企業はその10倍以上と推測され「産業空洞化」議論が沸き起こりました。製造業が空洞化することで国内では経済のサービス化が加速することになります。

プラザ合意後、1987年10月19日(月)、ニューヨーク株式市場でダウ平均株価が23%も暴落し、そのショックは世界中に波及しました。日本でも日経平均が34年ぶりに15%近く下落し、この下落率は未だに更新されていない最悪の記録です。世にいう「ブラックマンデー」です。当時1$=122円前後です。
日本経済は円高不況、ブラックマンデーにも関わらず急速に回復しました。要因として考えられるのは、円高に対応するために輸出依存型から内需主導型にシフトしたことがあげられます。
低金利政策で行き場を失った資金は株式市場に流れ込み、プラザ合意時の日経平均株価は12000円台でしたが1989年12月29日(納会)では39000円近くに高騰しピークを迎えました。ご存じの「バブル景気」です。低金利政策は株価高騰のエンジンとしてフル稼働しました。大阪の料亭女将に日参した多くの銀行マンが総額1.2兆円も融資したあげくバブル崩壊とともに破綻した事件はご存じの通りです。この事件の影響で一つの金融機関が消滅しました。

資金が流れ込んだもう一つの市場は不動産市場で、地価は上昇を続けました。地上げが社会問題化したのもこのころです。当時、私は沖縄に赴任した時期でしたが、顧問先の不動産開発会社の社長と面談中にひっきりなしに電話が入り、沖縄屈指のリゾート地である西海岸の恩納村の海岸沿いの土地の価格が分単位で万単位の上昇をしていたのを目の当たりにしました。高嶺の花となった住宅購入を諦めた人々は車や洋服を手当たり次第に買いました。物価も上がりましたが、給与もすごい勢いで上がりました。当時、証券会社に就職した新入社員の夏のボーナスが150万円でした。銀座ではショーケースに飾っていた100万円のミンクのコートの値札に0を書き加えると、その瞬間に売れたという都市伝説のような事例もありました。

1990年3月27日(火)、行き過ぎた不動産投資をクールダウンさせるべく不動産融資の「総量規制通達」がだされ、これをきっかけに不動産バブルは崩壊しました。不動産業への銀行融資は止まりましたが、個人住宅ローンの住専ノンバンクルートは対象外だったので、ノンバンクにシフトした銀行は結果的に大量の不良債権を抱えることになり、1995年〜2000年にかけて破たんした金融機関は北海道拓殖銀行を始め20行、ノンバンクは山一証券自主廃業を含め4社に上りました。
そのころの為替は1992年末までは1$=135円、1993年は110円、1994年は95円、1995年は85円と円高基調で推移し、ピークは1995年4月19日(水)の79.75円でした。バブルが崩壊して株安になっているのに円高が進んだ要因には、1994年のメキシコ通貨危機、1997年のアジア通貨危機の影響で安全な円が買われた結果だと言われています。

2000年代に入り、アメリカでは「ドットコム・バブル」に沸き立ち、そして崩壊。さらに追い打ちをかけるように2001年の「9.11」同時多発テロが発生し、空気が一変しました。日本の株式市場も大きな影響を受けてせっかく回復した日経平均も1万円を割り込みました。しかし、アメリカでは金融緩和とデリバティブを駆使して低所得者でも住宅を購入できるサブプライムローンのブームにより好景気が持続しました。
信用力の低いサブプライムローン問題はくすぶり続けましたが、遂に2007年7月には表面化し、2008年9月16日(火)にはアメリカの老舗金融機関リーマン・ブラザーズが破綻しました。世界規模であらゆる金融商品に組み込まれたリーマン・ブラザーズのデリバティブCDSの詳細は不明で、世界中に激震が走り金融機関は戦々恐々となりました。アメリカの名門自動車メーカーのクライスラーとGMが破産、フォードも大規模なリストラを余儀なくされました。その時世界経済を救ったのが、中国です。4兆元(当時1元=13.6円、日本円で55兆円)という史上最大規模の西部開発投資によって世界恐慌を食い止めたのです。リーマン・ブラザーズショック後の為替は安全な円が買われ1$=100円を割り込み円高基調となり、2012年には70円台で推移しました。2011年3月11日(金)の東日本大震災、福島原発危機のときも円高基調は変わらず、円高不況になっていったのです。

これに終止符を打ったのが「アベノミクス」で、第2期安倍政権が発足するやいなや日銀の黒田総裁の采配もあり為替は1$=105円台の円安で推移し、アベノミクス景気が訪れました。2016年2月には驚天動地のマイナス金利が導入され、日経平均も持続的に高騰し、為替も1$=130円台で推移しました。アフターコロナで世界経済が急速に復活する中で為替はじりじりと円安に振れ2023年10月には150円を記録しました。日経平均は2024年3月4日には史上初の4万円の大台を超えました。

プラザ合意以降の強烈な円高基調を乗り越えて成長してきた日本企業は、1989年のベルリンの壁崩壊によるアメリカ1強時代の中で1990年のバブル崩壊、1995年のWindows95の発売、インターネットの商用開始で世界の国境が消滅し、日本は一気にデフレシフトし、生き残るために安売り合戦を始めました。安売り合戦に参加してよいのは財務力の潤沢な大企業だけなのに、中小企業も参戦してしまったのです。
その結果、21世紀を迎えてもデフレ基調は昂進し30年になろうとしています。最近のインフレ及び賃上げブームにより多少変化しつつありますが、30年間続いたデフレ癖は体に染みついたままです。限界利益率65%以上確保した安売りは立派な戦略ですが、付加価値を犠牲にした根拠のない安売りは滅びの道まっしぐらです。勇気をもって利益体質に構造改革することが経営者の最大の使命と言えます。