No.1196 ≪阪神淡路大震災を思う~記憶をたどって~≫-2022.1.20

1995年1月17日(火)午前5時46分 連休明けの早朝に阪神・淡路大地震が発生。マグニチュード7.3、死者6,434人、負傷者43,792人、倒壊家屋249,180棟(内、全焼家屋6,965棟)、ライフラインの全滅という想像を絶する被害が神戸を襲いました。その被害額は9兆9,268億円にも上り、多くの企業や個人がつらい思いをされました。被害にあわれた方々には心よりお見舞い申し上げます。あれから、27年・・・。

私の場合、「もし、あの時神戸にいたら、『今』が無かったかも知れません。プレゼントされた命と人生を社会のお役に立てるように、がんばりたい」と1月17日は決意を新たにする日です。
なぜなら、地震3日前の1月14日(土)には実家のある兵庫県川西市におり、成人の日の連休を利用して神戸の友人に会いにいく予定だったのですが、都合が悪くなり結局は大阪のホテルに宿泊し、地震に合わずに済んだのです。※当時は成人の日は1月15日(日)で、翌日の1月16日(月)は代休でした。

地震当日、私は神戸から数10㎞離れた、大阪府吹田市のホテルに泊まっていました。
異常なゆれに驚いて飛び起きると、電気がつきません。カーテンをあけて白み始めた朝もやの中で室内を見ると、枕元にあったテレビが足元に飛び、冷蔵庫が倒れているのが分かりました。
何事かと部屋を飛び出すと、他の宿泊客も不安そうに様子を伺っていました。しばらくすると館内放送で、非常階段から避難するように放送がありました。
13階から1階に下りると、御堂筋に面した道路はガラスの破片が散らばっており危険な状態でした。
そのとき初めて地震があったことを知りました。
しかし、停電ですので、テレビが写らず、情報が全くありません。ホテルのスタッフも宿泊客をロビーに避難誘導し、そこで次の指示が来るまで待つようにというだけです。着の身着のまま飛び出したので、荷物は部屋に置いたままで、戻れません。当日は鹿児島出張が入っており、事情を説明して、着替えに部屋に戻り、出張に出かけました。

ホテルを出たのは良いのですが、地下鉄が動いていないことが分かり、タクシーを捕まえようとしますが、どれも実車です。30分ほど待って、やっと空車を捕まえることができました。
タクシーに乗るなり、何があったのかと運転手さんに聞くと、「神戸で地震があったみたいですよ。なんか、阪神高速(道路)が横倒しになったとか、えらいこと言うてますよ。幸いにもけが人はおらんかったようですが、これから出てくるんとちがいますか」との返事。
伊丹空港に到着して、空港が機能していることを確認してチェックインし、空港ロビーのテレビで地震発生から初めてテレビを見ることができました。なんと、神戸の町全体が燃えているではありませんか。運転手さんが言っていたように、阪神高速も倒壊しになっています。その時点での死者は3人ほどでしたが、これですまないだろうなと思いました。
会社や自宅、実家に連絡を取ろうと公衆電話を探しましたが、どこも長蛇の列です。
やっと、電話をかけることが出来ましたが、どこにかけても話中でつながりません。当時はほとんどの地域で電話回線が寸断され、不通常態になっていたのです。※このころはスマホ・携帯電話はおろかPHSも普及していませんでした。

鹿児島空港に着いたときに、ロビーのテレビを見ると、死者300人と大幅に増えていました。
鹿児島空港から会社と自宅に電話連絡することができてほっとしましたが、実家には依然として連絡がつきませんでした。
帰りの鹿児島空港では死者は1500人にも上り、大阪空港に着いたときには3000人に増えていました。時間がたつにつれて、被害状況の確認が進み、被害者の数も大幅に増えて、あまりの被害の大きさに愕然としました。
伊丹空港からのアクセスは寸断され、臨時バスが大阪駅まで出ていましたので、長蛇の列を待って、大阪駅までたどり着きました。ここからはタクシーしか交通手段がありません。ここも長蛇の列です。
ここで事件がおきました。客待ちしていたタクシー運転手が「料金は一人5000円。4人1組で乗せる」というのです。乗客が拒否すると、運転手は動こうとしません。結局4人で同じ方向の人が集まり、乗ってゆきました。非常事態に便乗して商売しようとする人がいることに愕然としました。

翌日(18日)は会社に出社すると、昨日から社員とお客様の状況確認をした状況がボードに掲示されており、住宅に被害があったものの、亡くなったり、怪我をした方はいなかったのが不幸中の幸いでした。
翌々日(19日)会社の仲間と2人で神戸市内のお客様を訪問しました。
鉄道はJR、阪神、阪急ともいたるところで寸断されているため、部分的にしか運行していません。
高速道路は通行止めで、一般道もひび割れて、車線減少、しかも物資輸送のトラックで大渋滞です。
確実なのは「バイク」「自転車」「自分の足」です。ところが、バイクや自転車はどこも売り切れでしたので、電車とバスを乗り継いで歩いてゆくしかありませんでした。

お土産を買おうにも、神戸市内は言うに及ばず、大阪市内のデパート、スーパー、コンビニの食べられる食品はすべて売り切れ状態です。昨日まであった「モノ」が一瞬にして消えてしまうのです。その後で出てくるのは、物価の高騰です。温かい食べ物には行列ができ、たこ焼き6個が1000円、おでん3個1000円、うどん1000円。
普段の3倍以上の高さです。しかし、買えるだけ幸せで、お金があっても「モノ」が無いのです。
まさにインフレの現場そのものです。
イザという時にものをいうのは「体力」と「当座の食糧」だということです。
あれから10年、地震のような自然災害だけでなく、9.11以降はテロとの戦いも本格化し、2020年にはコロナ禍という災厄も発生し、いつどのような事に遭遇するか分からない時代になりました。
「いつ死んでも後悔しない」生き様が必要な時代に入っています。