私は20世紀までは、ホンダの50歳定年制のように、社長の旬は55 歳までが良いと思っていました。旬とは、タイムリーかつスピーディに的確な判断と決断ができる年齢の事です。
「社長は55 歳定年で引退し、あらたな事業を起業すべし」と提案していました。もちろん、私自身も含めて。ところが、21世紀のミレニアム世紀に入ったころに体験したある出来事をきっかけに、「社長は生涯現役を目指すべし」と主張を180度変えました。
私に55歳引退を半ば脅迫的に迫られた顧問先の社長から、「先生はかって55歳で引退するとおっしゃっていましたが、もうあれからかなりの年月がたっていますね」といつも冷やかされます。その時は本当にそう思っていたのです。引退してやりたい事も決まっていましたし、その準備もしていました。あの出来事までは。
私の尊敬する経営者の一人で、今の経営コンサルティングスタイルを確立する上で恩人と言えるA社長との出会いが出来事のきっかけです。A社長は倒産寸前で債務超過の「ぼろ会社」の経営を懇願され、悩んだ挙句に意を決して、社員として入社し、数年後に負債も含めて引き受けられました。勤めていた優良上場企業の幹部の職を辞して、全財産をつぎ込んで経営に当たられたのです。
もともと人望も厚く、数字に明るい優秀なビジネスマンでしたので、会社を再建すべく奔走されました。「ぼろ会社」はA 社長という人物を得て、周囲の見る目も変わり、事業は順風満帆に推移し、発展してゆきました。
後の役員となる社員も多数採用し、持ち前の販売力と商品力で、規模も利益もぐんぐんと伸びてゆきました。引き受けた時には債務超過だった財務諸表も改善し、自己資本比率はわずかながらもプラスになりました。しかし、好事魔多し。バブル経済が崩壊し、その後の金融ビッグバンで都市銀行がバタバタと破綻してゆきました。この時上場企業の破たん・倒産はなんと17 社に上りました。経営環境が一気に悪化し、日本中が与信面で戦々恐々としていた時、A社長のメイン得意先が倒産してしまったのです。もともと財務が脆弱で自己資本がほとんどない状態のところに月商相当分の不渡りでまた債務超過に転落しました。今度は銀行も取引中止を宣告してきました。
そんな時に、私に相談があり、お手伝いすることになったのです。
「この世で解決できない問題はない。その人の力量に合わせて解決できる問題しか起きない」が私の信念です。
A社長と幹部の頭の中を整理して、現状認識を行い、現状の本質を追求し、皆で共有しました。それをもとに、全社員を巻き込んで、経営改善を進めてゆきました。もっとも効果的な改善方法は、朝の時間を活用することです。朝6:00から社員が集まり、先行会議で目標の進捗を確認し、8:00にラジオ体操と朝礼で業務に入ります。朝の会議は、得意先との打合せもなく欠席する理由がないからです。さらに、家族の協力を得ないとできません。皆が当事者になります。想定していた通り辞める方も出てきました。
それでもひるまずA社長が率先して、行動されました。すると、みるみる業績が好転し、1年で黒字化を達成しました。2 年で不良債権は一掃され、4年目には無借金になり、7年後には自己資本比率が30%を超えるまでに成長しました。
次は後継者を育成し、事業承継に入らねばなりません。役員の中から次期社長を選ぶべく、3年ほどの時間をかけて見極めようと打合せました。そして、A 社長から、「来期からB 君を社長にしたいと思うが、先生はどう思われますか?」と聞かれ、「賛成です。私もBさんなら立派に社長の御子息につないでくれると思います」と答えました。
A 社長はホッとされたことでしょう。それから、1か月後、経営支援の日にお伺いすると、普段はダンディで身だしなみをきちっとされているA社長が、髭を剃らずに出社されていたのです。「社長、今朝は相当忙しかったようですね。髭を剃られていませんよ」というと、返事もせずに、「先生、今日はこの車で送りますよ」と新車を見せてくださったのです。
「社長、先月も買ったばかりの新車だったのに、もう別の車にされたんですか」「先生、この車は運転が楽ですよ。今日は会社でいいんですか?」会話がかみ合いません。
その日以来、A社長は、財布も持たずにタクシーに乗って友人のところに出かけたり、会合に出席しても帰り方がわからなかったり、周囲の人たちから噂が出るようになりました。
御子息に、「A社長の様子がおかしいですが、何かあったのですか?」と聞きました。
「ボケが出てきたようなんです。母も家族も困っているんです」
「そうだったんですか? いつごろからですか?」
「先生と相談して後継者をB社長に決めたころです」
人生のほとんどを会社経営に没頭し、私財をなげうち、家族を含めて全てを犠牲にして、全身全霊で日夜刻苦勉励して、仕事が趣味で、仕事が生きがいで、仕事が人生そのものだったA社長が、夢にまで見た無借金経営、社員賞与3か月、自己資本比率30%以上の会社にした挙句に待っていたのは、「認知症」という病でした。
もし、引退など考えずに、現役で会社経営に携わっておられたらこのようにはなっていなかっただろうと大いに反省し後悔しました。私の主義主張を忠実に実行しようとして犠牲になられたのです。大変申し訳ないことをしてしまいました。この世で最も重要なものは「尊厳」です。「尊厳」以上に重要なものはありません。業績回復などはその足元にも及びません。
それ以来、経営者は生涯現役で、健康生活を送り、ピンピンコロリと昇天するのが最も望ましいのではないかと考えるようになりました。
私の師匠の一人、田辺昇一師は、12月22日のクリスマス前に、行きつけの理髪店に散髪に行かれ、そのまま、昇天されました。93歳でした。まさにピンピンコロリのモデルで私の憧れる終わり方です。
A社長の人生をお供して、経営者は生涯現役を貫き、いつも燃え、熱中するのが自他ともに最もハッピーだと確信するようになりました。 55歳引退という主張を180度まげてしまい申し訳ございません。