No.1156 ≪都合よく「忘れる」罪 その2≫-2021.4.7

私たちはビジネスマンや経営者である前に人間です。人間として忘れてはいけないことはたくさんあります。サムシンググレイトが創造された人間の体は見事で変幻自在のシステムを備えていますが、心は極めて非効率で不完全で自己中心的です。
脳はスーパーコンピュータ数台分に相当する記憶メモリがあり、心を集中すればそのメモリは自由自在に増減します。古事記を暗記した稗田阿礼はその典型です。しかし、一方で、都合よく忘却できる能力も持っています。

私のように記憶に自信がないならば、手帳やスマホにメモするとか忘れない工夫することが大事です。また、忘れた人を寛容(恕とも言います)する心を持たねばなりません。
誰でも仕事の事やお客様との約束は忘れませんね? 眠る事や食事のこと、給料日の事も忘れることはないでしょう。「寝食を忘れて仕事に打ち込む」時もちゃんと食事はしているものです、忘れずに。

でも、会議での決定事項や家族との約束や研修会の宿題などは忘れがちだったり、時には会議室や研修会場を出た瞬間に忘却したり、家をでたら忘れていたりする場合もあります。忘れないまでも優先順位を都合よく変えたりします。そこには「家族を養うために、会社の業績を上げるために、仕事で忙しいのだからやむをえない」という自分勝手な合理化が働き、約束を守れないことを都合よく正当化する心が働きます。これはとんでもない考え違いだということに気づくには多少の人生経験が必要です。知らず知らずのうちに、自分が「主」でほかの人を「従」にしてしまっているのです。自分が「従」になるのはお客様・得意先に対する時ぐらいです。これではいずれ事業は行き詰まり、家庭は崩壊し、人間関係は破綻してしまいます。

では一番忘れてはいけないのは何でしょうか?
私は配偶者や子供の事だと思っています。私事で恐縮ですが、妻は自分が築いてきた大学でのコンピュータ研究者としてのキャリアを捨て、アイデンティティの一部である姓を捨て、嫁いできてくれました。子供は月足らずで1260gの未熟児で生まれてきました。生まれるにあたり子供には何の落ち度もありません。そんな妻と子供の誕生日はもちろんですが、好きなことや嫌いなこと、得意なことや苦手なこと、性格や考え方、してもらったこと、して返した事、迷惑をかけたことなど忘れてはいけないと思っています。
次に、私と妻の両親の事です。氏素性はもちろん、それぞれの誕生日と命日、好きなこと、好きな食べ物、口癖、してもらったこと、して返したこと、迷惑をかけたことです。ありがたいことに尊敬できる両親に恵まれ無償の愛情を注いでくれました。そのおかげで今があります。

次に、社員です。目加田経営事務所は私を含めて5名しかいないので、忘れることはありませんが、数百名もおられる経営者は大変です。でも忘れてはだめです。中でも、最も弱い立場にいる方から順に忘れてはいけないと思っています。そのような方の多くは文句も言わず黙々と仕事をして支えてくれている方がほとんどです。
もし、思うように成果を上げていないならば、その責任は経営者にあります。社員のせいにするのは経営者の無能の証明です。強い社員は放任しても声を上げますし、わかりやすい行動で示します。
3年前に90歳の生涯を閉じられた尊敬するM社長は毎月の給料袋に筆で従業員の名前を書くことを誇りにされていました。その数はパートさんに至るまで数百名おられました。800名になるまで従業員の顔と名前が一致していたので、現場で名札を見ずに名前を呼んで声掛けできました。それ以上に会社が成長しM社長は、「目加田さん、社員の名前と顔が一致しなくなったので潮時だと思う」と言って数年後に後継者にバトンタッチされました。70歳でした。

むかしむかし、台湾に八田与一(1886-1942)という技術者がおられました。李登輝総統が尊敬してやまない方でした。ご存じの方も多いと思います。
台湾は日清戦争後の下関条約にて1895年に清国から日本に割譲され、日本の領土となりました。それまで清国は「化外の地」として重要視していませんでした。やってくるのは私腹を肥やすことしか考えない低級官吏ばかりでした。統治どころか、教育もインフラ整備も行政も何も行わず、無法地帯で、少数民族の言語だけでも10以上存在し、島内のコミュニケーションは取れない状態でした。そこに日本が統治することになったのです。
台湾統治の為に台湾総督府を設置し、第4代総督の児玉源太郎(1898年)が、のちに東京市長となり今の東京を設計した農政の専門家である後藤新平を民政長官として招きました。日本の統治の仕方は、いつも同じです。
学校を作り人々を教育し、下水道整備と病院建設で公衆衛生に努め、道路建設と鉄道敷設で物流を効率化し、土地測量と税制を整え、殖産興業を行いました。後藤新平は同郷の農政のプロである新渡戸稲造を2年間(1899-1901)の約束でさとうきび等の農業政策を推進するために招きました。農業が発展すると大量の水が必要になります。そこで、派遣されたのが、東京大学出身の24歳の土木技師である金沢出身の八田与一です。
1910年に台湾に赴任して石門ダムを完成させたあと、1920年に台南に世界最大の烏山頭ダムを建設することになり1934年完成させました。そのおかげで15万Haの華南地区を台湾随一の穀倉地帯へと変貌させました。
32歳の若さで設計を担当し、未経験な工法を徹底的に研究しセミハイドロリックフィルダム工法の権威者ジャスチンと大激論し、自説を曲げずに設計し着工。現在でも1億トンの水量をせき止めており、大地震にもびくともしませんでした。
ダム建設には家族一緒の生活が必要だと主張し、学校や商店や娯楽施設を作り2000名を超える町を作りました。

工事中、1923年関東大震災が発生し、工事資金が底をつき、中断を余儀なくされリストラに入らねばならなくなりました。幹部は「優秀な者を退職させると工事に支障がでるので退職させないで」と進言しましたが、八田与一は「大きな工事では優秀な少数の者より、平凡な多数の者が仕事をなす。優秀な者は再就職が簡単にできるが、そうでない者は失業してしまい、生活できなくなる」といって優秀な者から解雇しました。
その後、資金を工面して工事を続行し、一旦リストラした人材を再び呼び寄せて完成にこぎつけたのです。

烏山頭ダム完成後の1942年、八田与一は陸軍に徴用され、フィリピンに向かう輸送船がアメリカ潜水艦に撃沈され戦死しました。亨年54歳。
1945年敗戦後、日本人は台湾から帰国しなければならなかったのですが、妻の八田外樹代は夫の作った烏山頭ダムに身を投げて生涯を共にしました。亨年46歳。
地元の人たちは八田夫妻の遺徳をしのんで1946年に銅像を建立し、75年以上たった今でも銅像前には地元の人が訪れきれいな花が絶えることはありません。命日の5月8日には追悼式が行われています。
毛沢東に敗れた蒋介石が1949年台湾にやってきた時も、地元の人たちが八田与一の銅像をこっそりと他に移して難を逃れ今日に至っています。