ホテルや旅館では客室の利用状況を「稼働率」という経営指標を使って判断します。コロナ前までは、ホテルの損益分岐点は稼働率70%だと言われてきました。稼働率70%というのは施設の部屋数が300室だとすると、210室以上が利用されている状態です。インバウンドが活発だったころは「稼働率」100%以上のホテルも続出しました。1つの部屋を2回使うのです。朝チェックインして夕方チェックアウトする旅行者もあれば、夜遅くチェックインして早朝チェックアウトする方もおられます。実に様々な方がおられました。
コロナ禍になって宿泊客が激減しました。さらにパンデミックになるとインバウンドは消滅しました。従業員も減らさざるを得ません。苦しい時機が続きました。施設を維持するためのスタッフ以外はレイオフ状態です。「GoToトラベル」「県民割」「全国旅行支援」と様々な旅行喚起策がとられました。それに対応するにはスタッフを呼び戻したり、補充しなければなりません。補助金や支援金で喚起された需要だけにいつしぼむか爆弾を抱えた経営状態です。2021年にコロナワクチン接種が始まり、人々の動きが少しづつ活発になり、2022年秋口から力強い回復の兆しが見え始めました。
今度はスタッフの確保が大変です。一旦離職したスタッフは転職している為、思い通りに集まりません。到底、施設をフル稼働させるのは不可能です。そこで「稼働率」の価値転換が起きたのです。それまでのホテル経営は売上高中心の発想で、その目安として稼働率70%以上という指標があったのです。例えば、300室のホテルで、平均宿泊単価1万円とすると、稼働率70%だと、1日の売上高は210万円となります。固定費を200万円とすると利益は10万円です。しかし、売れ残っている90室をダンピングして5000円で販売すると、45万円の売上高となり、利益は55万円となります。価格競争して稼働率を上げれば利益が出たのです。この前提条件としてスタッフはいつでも必要な分だけ確保できることでした。
しかし、コロナ禍によって、この前提条件が崩れてしまいました。スタッフが必要な時に必要なだけ集めることができなくなったのです。今確保できるスタッフで顧客満足度を最大にできる部屋数は何室か。さらに持続可能な経営をするためには、料金設定はどれぐらいが良いかという風に変わったのです。
あるホテルは、確保できたスタッフ120名でしたので、提供できる部屋数は60部屋と決めました。1部屋を2名で担当し顧客満足度を向上させることで料金は高めに設定しました。宿泊料は従来の3倍近い5万円に設定しました。プライベートビーチを持つ高級リゾートホテルですので、あっという間に満室になりました。
従来は300室を稼働率100%、スタッフ数300名で運営していましたので、一人が1部屋を担当していました。平均宿泊単価は15000円でしたので、日商450万円でした。部屋数が多い分だけ、ベッドメイキングコストやメンテナンスコスト、廃棄コスト、エネルギーコストがかかりますし、スタッフも多忙を極め、疲労困憊で、誰か一人が休むと途端に他の人にしわ寄せがゆきました。稼働率100%の満室状態でもそれほど利益は出ていませんでした。それを発想転換して稼働率を20%程度に抑えたことにより、60室×5万円=300万円と日商は40%減収しましたが、スタッフ数は半減したので固定費は半減しました。さらに各種コストも大幅にダウンしましたので利益は激増しました。スタッフの雇用改善の原資も十分に出てきますし、施設のメンテナンスも計画的に行うことでトラブルが防止され、メンテナンスコストも削減できたのです。
今後は確保できるスタッフ数が増えた分だけ供給する部屋数を増やせばよいのです。また、食事やイベント、アクティビティを開発することで魅力を増やすことができます。優良顧客のリピートを可能にするのでさらに顧客満足度が高まります。スタッフの待遇改善により、スタッフの持ち味を最大限引き出して、売り物を磨いて磨いて磨き倒すことで、ブランドイメージをさらに高め、信者ファンを創造することができるのです。良いことづくめです。
また、テレビ報道でご存じの方も多いと思いますが、神奈川県鶴巻温泉に「陣屋」という老舗旅館があります。
1万坪の庭園に将棋のタイトル戦にもつかわれる「貴賓室」を含め20室の客室を持つ100年企業です。父親が急逝し母親も病に倒れ、多額の借金を抱えて倒産まで後半年という時に、最後の手段としてM&Aを行うので手伝ってほしいと母親に懇願されて後を継いだ若夫婦が3年で奇跡的なV字回復を遂げて有名です。夫は一流自動車メーカーのエンジニア、妻も旅館業には全くの門外漢でした。稼働率にこだわるあまり価格競争に巻き込まれ宿泊料金は低下する一方で、100人の社員やスタッフを抱えたまま、赤字経営のあげく多額の借入金で倒産寸前だったのです。
行動の中心になったのは若女将となった妻で、スタッフ全員とインタビューし現状認識を行いました。そして「低稼働率、高単価経営」「実験的貴賓室の再活用」「ブライダル事業スタート」と方針を打ち出し改革が始まりました。頑固な抵抗勢力と忍耐強く話合いました。そして思い切って稼働率の低い曜日を実験的に休館することにしました。今では週3日休館して経営されています。週3日休館している旅館を想像できますか?
それでも業績はうなぎのぼりで見事V字回復し、黒字転換を果たしました。
稼働率は高ければ良いというものではなく、利益を生むための一つの指標として利用すればよいのです。