No.1381 ≪台湾にみる日本精神≫-2025.9.3

8月30日(土)~9月1日(月)の3日間にわたり台湾第二の都市台中市で絵の展覧会を友人3名と開催しました。今回実現できたのは知己の人々のご縁のおかげで、そのご縁でまた新たな素晴らしい出会いがありました。また、今回は憧れの八田與一師に会えたことと、師が100年前に建設した世界最大(当時)の烏山頭ダムに立つことが叶いました。驚いたことに、訪ねた日が八田與一師の外代樹奥様が日本の敗戦後の9月1日にダムに身投げして亡くなった命日でもありました。何という奇遇。実に安岡正篤師の教え「縁尋機妙多蓬聖因」を体感できた展覧会でした。

賢明な経営者の皆様は「八田與一」師をご存じだと思います。台湾で最も有名な日本人が二人おられます。一人は民主台湾を作り上げた李登輝元総統、もう一人が李登輝師が尊敬する八田與一師です。戦前、日本の海外領土は台湾、朝鮮(現在の韓国&北朝鮮)、満州国(現在の中国の遼寧省、吉林省、黒竜江省、内モンゴル自治区の一部)があります。同じ治政方針(一に教育整備、二にインフラ整備、三に殖産興業)を取りましたが、今も親日の国は台湾だけです。その理由の一つが八田與一師による烏山頭ダム建設及びその後の嘉南大圳(かなんたいしゅう)の大規模な水利工事があります。このダムのおかげで治水が悪く農業に適さなかった台湾南部地域が沃野に変貌し、二束三文の土地が町の地価より高くなり農民は市民より豊かだと言われたそうです。そこで生産された作物が蓬莱米、サトウキビなどです。サトウキビは多くの製糖会社を育て、その利益は日本本土の経済発展に大きく貢献しました。日本の財政を支える大黒柱になったのです。

1910年八田與一師(1886-1942 金沢出身)は東大卒業後に土木技師として台湾総督府に就職。1916年着工し1921年に完成した石門ダム(3.5万ha)を手始めに、1920年に烏山頭ダム建設を任され、着工し、1930年に完成させました。途中、大事故で多くの犠牲者を出したり、財政難でリストラせざるを得なくなったり、度重なる苦難に見舞われましたが、たぐいまれなる不屈の精神と人を大事にする人徳でそれを乗り越え、独創的な工法で世界初のダムを完成させたのです。1600万円(現在価値で約5000億円?)の予算のうち、400万円(現在価値で1200億円?)を投じて、アメリカから大量の大型機械を購入し、ドイツから蒸気機関車を購入して、地震の多い台湾に環境に適したセメントをほとんど使わない自然循環型のセミ・ハイドロリック工法で完成させたのです。
従業員が働きやすいように学校から病院まですべてそろった街を建設したり、関東大震災で予算を削られてリストラしなくてはならなくなった時には、優秀な人からリストラしたり、殉工碑を建立して差別なく死亡順に刻銘したり、ダムの給水量の3倍の農地に公平にまんべんなく給水できるように3年輪作農法を考案し土地整理まで行っています。詳しくは大林組「季刊大林」でご一読ください。https://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/detail/kikan_60_hurukawa_3.html
10年に及ぶ工事を完成させた八田與一師は1942年、陸軍に徴用され、大型客船太洋丸に乗り込みフィリピンの灌漑施設調査に向かいます。五島列島沖を航行していた太洋丸はアメリカ潜水艦に撃沈され亡くなりました。亨年56歳。
1945年敗戦後、日本人は台湾から帰国しなければなりませんでしたが、台湾永住を決めていた八田與一師の妻外代樹は夫の作った烏山頭ダムの放水口(記念館のそばにあります)に身を投げ生涯を終わります。1945年9月1日、亨年45歳でした。そこまで台湾と共にあったことを台湾の人たちは誇りに思い、今でも、銅像の前には花が枯れたことがないそうです。
9月1日に烏山頭ダムを訪れた時は、ちょうど外代樹夫人の命日にあたり、銅像の前には白い百合の花が沢山飾られていました。ダムを見下ろす丘にある八田與一師の銅像前にも花束が沢山飾られていました。
国を挙げて、顕彰していただいているのがよくわかりました。台湾がなぜ親日なのか、なぜ台湾人は日本や日本人を大好きなのか、なぜ東日本大震災の時に253億円に上る義援金が瞬く間に集まったのか、理由がわかる気がしました。

八田與一師をこよなく尊敬されていたのが李登輝元総統(1923-2020)で、日本人が決して忘れてはならない一人です。
故李登輝師(日本名は岩里政男)は学校では首席の愛国少年で、長じて京都大学に進学し、21歳で学徒出陣し陸軍に入隊し、軍隊では幼少の頃に小作人の苦しみを見ていたこともあり「歩兵にしてください、二等兵にしてください」と懇願し皆がもっとも嫌がる役を承けました。終戦は本土で迎え、戦後の台湾に貢献したいと帰国しました。日本精神(日本統治時代の教育方針:勇気・誠実・勤勉・奉公・自己犠牲・責任感・清潔等)で人格形成した李登輝師が、無知で粗野で乱暴で汚い、まるで浮浪者のような国民党軍の支配下に置かれるのですから耐えがたい苦痛と悲哀があったと思います。
1949年に発生した2.28事件に端を発し戒厳令下の弾圧を白色テロ時代と言いますが、李登輝師が戒厳令を解除するまで42年間続きました。台湾出身の日本人という李登輝師は国民党から粛清されるリスクがありましたが、友人の助力で難を逃れました。その後、アメリカに留学し権威ある賞を受賞し台湾に帰国しました。
1972年には日米ともに中国と国交回復し、台湾と断交します。国際社会から国として認められなくなったのです。その後、蒋介石の子の蒋経国の知遇を得て政界に進出し、1984年選挙に当選し副総統に就任しました。1988年に蒋経国総統の死去に伴い臨時総統に就任し、「台湾人の国、自分の国を創ろう」と臨時総統の任期満了した1990年に総統に選出され、40年以上続いた戒厳令を解除し、憲法を改正し万年議員を退職させ、国民党軍直属の軍隊を国軍にする民主化を進めました。そして、ついに総統を直接選挙で選ぶために行動を起こし1996年に実現します。73歳の時です。さらに総統の任期は1期4年、2期までと制限を設け独裁化を防止します。誰もがなしえなかったことを成し遂げたのです。台湾の60倍以上の人口を持つ中国からの圧力に屈することなく毅然と対応できたバックボーンに武士道、日本精神があったとおっしゃいます。
日本人は日本精神を無くしてはいないかと常に警鐘を鳴らしてくださっていました。果たして私たちは李登輝師と正対して顔を合わせることができる日本人になっているのかと自問自答し、後世に伝えてゆかねばと決意を新たに帰国の途につきました。