先日、那覇市倫理法人会のモーニングセミナーで台湾出身の李久惟(ジョー・リー)さんのとても感動的な講話をお聞きすることができました。タイトルは「日本の先人が台湾に残した功績と日台の絆~なぜ台湾は親日で沖縄が好きなのか~」でした。ジョーさんの勤務先(吉本興業ラフアンドピース専門学校)のホームページを見ると、「幼少期をイギリスで過ごし、1995年に来日。東京外国語大学に在学中から通訳、翻訳家として活躍。卒業後は台湾新幹線プロジェクトや参議院議員海外関連公務などに携り、WBC(野球)やサッカーアジア大会、東京国際映画祭などの通訳も務めた」方で15か国語を話すマルチリンガルです。
講話を聴きながら、李登輝師(1923-2020)のことを思いだしました。長い時間をかけて欧州を中心に作り上げてきたサステナブルな「調和」(フリー・フェア・グローバル)に異議を唱え、対抗グループが力をつけてきた時に、覇権国アメリカがMAGAを展開しだしました。第1期MAGA(2017-2020)はある種のキワモノ政権でしたが、第2期(2025-2028)となるとこれは一つの潮流となります。明らかに世界の潮目が変わりました。
戦後日本では企業が政治に関心を持つのはタブーとされ、表面的には平和な社会を築いてきましたが、これからはそうは行きません。戦後の激動の中でブレズに「日本精神」(日本統治時代に台湾人が学んだ勇気・誠実・勤勉・奉公・自己犠牲・責任感・清潔等の美点)を芯に持ち世界に冠たる台湾を作り上げた日本人、李登輝師を思わずにはおれません。
私が尊敬する李登輝師(日本名は岩里政男)は学校では首席の愛国少年で、長じて京都大学に進学し、21歳で学徒出陣し陸軍に入隊し、軍隊では幼少の頃に小作人の苦しみを見ていたこともあり「歩兵にしてください、二等兵にしてください」と懇願し皆がもっとも嫌がる役を承けました。終戦は本土で迎え、戦後の台湾に貢献したいと帰国しました。そこに毛沢東軍に敗れた蒋介石率いる国民党軍が大陸から逃げてきて、臨時政府を置きました。日本精神を身に着けた李登輝師が、無知で粗野で乱暴で汚い、まるで浮浪者のような国民党軍の支配下に置かれるのですから耐えがたい苦痛があったと思います。
1947年に2.28事件が発生し、台湾出身の日本人という李登輝師は国民党から粛清されるリスクを心配した友人がかくまってくれました。その後、アメリカに留学し権威ある賞を受賞し台湾に帰国しました。
1972年には日米ともに中国と国交回復し、台湾と断交します。国際社会から国として認められなくなったのです。その後、蒋介石の子の蒋経国の知遇を得て政界に進出し、1984年選挙に当選し副総統に就任しました。1988年に蒋経国総統の死去に伴い臨時総統に就任し、「台湾人の国、自分の国を創ろう」と臨時総統の任期満了した1990年に総統に選出され、40年以上続いた戒厳令を解除し、憲法を改正し万年議員を退職させ、国民党軍直属の軍隊を国軍にする民主化を進めました。そして、ついに総統を直接選挙で選ぶために行動を起こし1996年に実現します。73歳の時です。さらに総統の任期は1期4年、2期までと制限を設け独裁化を防止します。誰もがなしえなかったことを成就したのです。台湾の60倍以上の人口を持つ中国からの圧力に屈することなく毅然と対応できたバックボーンに武士道、日本精神があったと言います。
台湾は日清戦争で日本が清国から割譲された最初の海外領土です。台湾には公認16、未公認13以上の山岳部族が存在し、言語もまちまちで共通の言語がなく、それぞれの部族が対立関係にあり、とても危険な場所でした。清国も台湾は化外の地として統治せずに放置していた歴史があります。日本は統治する上でインフラ整備に力を入れて、日本人として教育するために学校を作りました。芝山巌学堂もその一つです。1896年、治安の悪い台湾に17歳から37歳の6名の教師(六士先生といいます)が芝山巌学堂に派遣されました。最初は警戒して近づかなかった住民も打ち解けて生徒が少しづつ増えてゆきました。そして事件が起きました。抗日ゲリラの襲撃を察知した住民が危険だから避難するように勧めてくれたのですが、教育に命を懸けていた六士先生はとどまり説得する決断をしました。そして、用務員と6名の教師は惨殺され首をはねられてしまいました。しかし、六士の遺志を継いで3か月後には学校が再開されました。彼らの台湾での教育に賭ける犠牲精神は後に「芝山巌精神」と言われ、芝山巌神社を建立し人々の間で語り継がれました。1949年に蒋介石率いる中華民国が台湾に逃げてきたとき日本的なるものは徹底的に破壊され芝山巌神社も例外ではありませんでした。その時、住民が協力して墓から遺骨を安全な場所に移し替えてくれたのです。
もう一人台湾の人々の心に残っている日本人に八田与一がいます。台南の広大な土地を生かすにはダム建設が必要だと建議し国会承認をえてダム建設に着工しました。1918年のことです。事業は水利組合が行い、建設費の半分は国庫から支出されることになり、八田は安定した国家公務員の立場を放棄して水利組合の技師として不退転の決意をもってプロジェクトに当たりました。作業員の福利厚生のために宿舎・学校・病院なども建設しました。その間、関東大震災が発生し資金難となりリストラをせざるを得ない苦境に直面しましたが、アメリカの震災支援のおかげで資金を確保できて再開し、1930年に世界最大の烏山頭ダムを完成させました。このダムのおかげで台湾は緑の沃野となり経済的に大発展しました。ダムは今も現役で活躍しています。
1939年に八田は召集され南方戦線に向かう途中で撃沈され亡くなりました。悲報を聞いた奥さんはダムに身を投げ思いをともにしました。八田夫妻を顕彰した銅像がダムを見下ろす場所に立ちましたが、国民党軍に見つからないように住民が隠してくれました。85年経った今も地元住民が花を供えてくださっていると聞きます。
他にも多くの日本精神の事例が台湾人に語り継がれています。果たして私たちは李登輝師と正対して顔を合わせることができる日本人になっているか、常に身調べが必要ではないかと思います。