先日の「知情意の研究」の事例編になります。知・情・意の何を優先するかが大事な時代になりました。今生きているほとんどの方は経験したことのない100年に一度の激動の時代です。コロナ禍が様々な変化をもたらし、従来の考え方が通用しない時代になっています。このような時に、どう考え、どう行動するかを聖賢に学ばねばと思っています。
日本のシンドラーといわれた杉原千畝氏が手書きビザを発行して多くのユダヤ人を助けたことは有名ですが、その数年前に軍人でありながらユダヤ人を助けた樋口季一郎氏をご存じの方も多いと思います。月間「致知」を愛読されている方は記事を読まれたのではないでしょうか? 時は欧州で風雲急を告げる第二次世界大戦の直前のころ、日本はドイツと(後に枢軸国同盟に発展する)日独防共協定を締結した翌年の出来事です。1938年の冬、ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害から逃れるべく日本に助けを求めてシベリア・満州国境のオトポール駅に押し寄せたときのことです。
なぜオトポール駅に押し寄せたかといえば以下のような出来事が影響しているのではないかと思います。
1937年(昭和12年)12月26日、第1回極東ユダヤ人大会が開かれた際、関東軍の認可の下で3日間の予定で開催された同大会に、陸軍は「ユダヤ通」の安江仙弘陸軍大佐をはじめ、当時ハルピン陸軍特務機関長を務めていた樋口季一郎陸軍少将らを派遣し、席上で樋口季一郎氏は、前年(1936年)に日独防共協定を締結した同盟国ナチス・ドイツの反ユダヤ政策を、間接的に激しく批判する祝辞を行い、列席したユダヤ人らの喝采を浴びたことがあったのです。
1938年(昭和13年)3月、ユダヤ人数万人がナチスの迫害から逃れるため、ソ連の国境沿いのシベリア鉄道・オトポール駅(現在のザバイカリスク駅)まで避難し、日本に亡命を求めました。3月のシベリアは酷寒で生命の危険があり、惨状を見かねて、樋口季一郎氏は部下の河村愛三少佐らとともに即日給食と衣類・燃料を配給し、傷病者は治療しました。ハルピンのユダヤ人協会会長のカウフマン氏は救済を懇願し、中将になっていた樋口季一郎氏は「助けましょう」と確約したのです。ビザを発給し、友人である満鉄の松岡総裁に依頼し、特別列車13本を仕立て、彼らを上海租界に運びました。後にオトポール事件と呼ばれ、第二次世界大戦が勃発する1年半前の出来事でした。
JTBの記録によると、満州から入国したドイツ人(ユダヤ人)は、1938年245名となっています。松井重松(当時、案内所主任)の回想録には「週一回の列車が着くたび、20人、30人のユダヤ人が押し掛け、4人の所員では手が回わらず、発券手配に忙殺された」と記されている。実際には数万人に及ぶ模様だと孫の樋口氏は述べておられます。
後日、ナチス・ドイツより強硬な抗議があり、樋口中将は関東軍司令部の東条英樹参謀長(当時)に呼び出され、事情聴取を受けました。
その際、樋口季一郎氏は「ドイツは同盟国ですが、そのやり方がユダヤ人を死に追いやるものならば人道上の敵です。人道に反するドイツの処置に屈するわけにはゆきません。私は日本とドイツの友好を希望しますが、日本はドイツの属国ではありません。東条参謀長、ヒトラーの御先棒を担いで弱い者いじめをすることを正しいとお思いですか?」と言い、東条英機は「君の言うことは筋が通っている」と納得し、ナチスの抗議を不問にしました。
樋口季一郎氏がユダヤ人救助に尽力した背景には、若いころに特務機関員としてウラジオストックに派遣された時、ユダヤ人の家に下宿して交流し、ユダヤ人差別の背景を熟知していた経験があったといわれます。
戦況はさらに悪化して、日本はアメリカに宣戦布告し太平洋戦争に突入しました。そのころ、樋口季一郎氏は札幌に赴任していました。
1942年(昭和17年)8月1日、札幌に司令部を置く北部軍司令官として着任し、翌年4月、ベーリング海のアリューシャン列島の最西端に位置するアッツ島に着任する山崎大佐に「事あらば必ず増援する」と確約して3千名を送り出しました。
5月に米軍が12千名の大勢力でアッツ島を攻略したとの一報に対し、樋口季一郎氏は約束通り事前の大本営の許可を取っていた増援手配をしますが、大本営から「都合により増援を放棄する」と命じられます。南方戦線への兵力移動が優先されたのです。
樋口季一郎はアッツ島にいる山崎大佐に「本官の力及ばず・・・陳謝する」と電報すると「生死はもとより問題にあらず・・・将兵一丸となって死地につき霊魂は長く祖国を守る事を信ず」と山崎大佐は返電してきました。
樋口中将のいる指令室は無念の嗚咽が広がったそうです。そしてアッツ島はわが国最初の玉砕の場となった。後に札幌護国神社に慰霊碑が建立された時、病身の樋口中将は山崎大佐の息子さんにお詫びすることができ、肩の荷がおりたのか1か月後なくなりました。
アッツ島の教訓により、キスカ島は絶対助けたいと大本営の許可を取り、陸海共同で撤退作戦が計画されました。海軍の木村中将の指揮する小型巡洋艦で、1943年7月29日深夜の濃霧の中、島を包囲する米軍の隙をつき救出作戦が始まりました。ところが、重い重機を背負い船によじ登る兵の動きでは米軍に察知される危険があるので、樋口中将は周囲の反対を抑えて武器の海中投棄を命じました。そのおかげで、55分で5千名の将兵の救出を成功させたのです。
翌日キスカ島に上陸した米軍はもぬけの殻に驚きましたが、もっと驚いたのは、島上空で撃墜されて戦死した米兵が丁寧に埋葬され、戦死の日時や状況が克明に記載されていたことでした。これは奇跡の救出作戦と呼ばれています。
1945年8月15日、武装解除の最中にソ連軍が中立条約を反故にし、北海道占領を意図し占守島に上陸してきました。樋口中将は「断乎反撃」を命じ、激戦に次ぐ激戦で熾烈な戦闘となりました。敗戦後に戦死した方も多数あったのです。最終的には本国の命令で停戦しますが、ソ連軍が国後島まで後略してきたころ、米軍が北海道に進駐し、スターリンの北海道及び東北占領の思惑は潰えたのです。もし、敗戦後に本国の命令に反して、「ソ連の無法行為は正義に反する」と反撃した樋口中将の判断がなければ、日本は朝鮮半島のような分断国家になっていたかもしれません。 もっと詳しい内容をご希望の方は2020年5月号「致知」をご覧くださいませ。