全ての決断には必ず表からは見えない幽界に属するビハインド事情があります。当事者が言わない限り憶測するしかないことがほとんどです。
今週の25 日(金)~27 日(日)の3 日間、古事記の現場を旅する「まほろば研究会」で熊野三山~伊勢~能褒野を巡ります。本当は昨年(2018年)の予定でしたが、台風21 号の直撃で、集合場所に予定していた関西空港が浸水し閉鎖され、連絡道路がタンカーに直撃されて通行不能になり、海外旅行者を含む3 千人が孤立して大騒ぎになりました。結局、予定していた熊野に行くことができませんでした。
なぜ熊野に行くかというと、古事記の「中巻」神武東征のくだりで、大阪湾でナガスネヒコの軍隊と戦争になり、カムヤマトイワレヒコ(後の神武天皇)の兄イツセが負傷します。「神の子である我らが太陽に向かって進軍したのが間違っていた」と悟り紀州半島をぐるりと回って熊野側から進軍する場面があります。途中でイツセは傷が悪化して亡くなり、カムヤマトイワレヒコは進軍を続け、新宮から熊野村に入ります。すると、いきなり大きな熊が現れたかと思うと、全員が気絶してしまいます。山の神の祟りにあったのです。
この危急を救ったのが、出雲を平定したタケミカヅチノオで、熊野のタカクラジという部下の家の屋根に穴をあけ、フツノミタマという刀を降ろし、カムヤマトイワレヒコを助けるように命令します。フツノミタマのおかげで祟りから覚めた神武軍は進軍を続けます。天からは案内人として三本足のヤタガラスが遣わされました。このヤタガラスはJリーグのシンボルマークになっています。この天の配慮のおかげで神武東征は完成します。熊野は古事記の旅で飛ばすことができない大きな山場です。それでまほろば研究会では熊野行にこだわっています。
もう一つは、天智天皇と天武天皇とのいさかいの結果、天武天皇は謀反の意思がないことを兄天智天応に伝えるために剃髪して吉野(熊野)にこもります。天智天皇崩御後に壬申の乱がおきて、天武天皇が即位します。なぜ、天武天皇は吉野(熊野)にこもったのでしょうか? その理由を知りたいのです。
さらに、白河天皇が8 歳の子に譲位して上皇になって始めた院政は熊野がベースに成り立っています。上皇の熊野参詣を御行(ごこう)と言い、天皇の伊勢参詣を行幸(ぎょうこう)と呼び区別しています。
白河天皇の父、後三条天皇は、荘園改革を強力に推進しました。なぜ、荘園改革をするかと言えば、大化の改新で打ち出された公地公民制(すべての領国と領民は天皇に所属する)で私有を禁じていますが、法の抜け穴を突いて私腹を肥やし、法律を骨抜きにする官僚(貴族)がのさばり、天皇の税収は次第に減少していったからです。取り締まりを強化しましたが、いたちごっこに嫌気がさして、後三条天皇は4 年で白河天皇に譲位し、上皇になりました。
この状況をつぶさに見ていた白河天皇は、父親とは全く逆の発想で行動しました。どんなに取り締まっても、骨抜きにする官僚は後を絶たない。ならば、自らが私有できるようにすれば安泰ではないかと発想したのです。
天皇は公地公民制で私有できませんが、上皇は何の縛りもありません。ならば、荘園を再編成することで財政基盤を整えたのです。伊勢は天皇の領域ですので、それ以外の聖地が必要となりました。それが熊野です。
熊野三山に荘園を寄進させ、財政基盤を整えました。出家して法皇にでもなれば寺院を建立して、寺院に荘園を寄進させることでさらに財政力を盤石にできます。
そして、上皇の政府が必要になり、院庁を設置し、これを取り仕切る役人を集めます。家柄ばかりで何もしない貴族より能力がある人たちを集めました。それが藤原信西や平良忠盛(清盛の父)です。源氏もこのころ勢力を伸ばしています。この院政は鎌倉幕府が成立するまでの約100 年間続きます。結果的に、武士が政治に関与する隙を与えてしまったともいえます。院政時代に熊野御行は100 回を超えました。 多くの人を引き付ける熊野はどういうところなのか、じっかり体感してきたいともいます。