目加田経営事務所が主宰している「社長塾」は規模の成長よりも永続企業になることを目的とし、その一つの目安として創業100年のありたい姿を描くことを重視しています。そして、その基本となる考え方を「原因自分論」「先義後利」「三方よし」「不易流行」においています。
先日、「先義後利(せんぎごり)」の提唱者である石田梅岩(1685-1744)のシンポジウムが京都・亀岡市で生誕340年を記念して行われました。亀岡市はご多分に漏れず人口減少の課題はありますが、ニデック創業者永守重信氏が私財を投じて創立された京都先端技術大学(KAUS)のキャンパスがあり、Jリーグ京都サンガのホームタウンで若者と外国人にあふれています。石田梅岩を顕彰することで生涯学習の一大拠点を展開する構想を実践しています。
石田梅岩は京都・亀岡市の富農の次男として生まれ、長子以外は家を出る習わしから8歳(1692年)で京都の商家に丁稚奉公に出されました。奉公先が廃業した為半年ほどで帰郷し、15年間は兄と一緒に農業を手伝いましたが、23歳(1707年)の時に再度京都に出て呉服商黒柳家に丁稚奉公に入りました。その働きぶりが認められて番頭にまで出世し「のれん」分けの権利を与えられますが、もっと勉学を極めたいと、独学で近隣の先生の講話を巡聞します。
そして小栗了雲と運命的に出会い、「性(こころ)は万物の親」「人の道は孝悌忠信のみ」(親や先祖、目上の人を大事にし兄弟仲良く、真心で主君に仕え正直に生きる)「(学ぶことは)文字のするところにあらず修行のするところ」と教えられ生涯の師と仰ぎ弟子入りしました。梅岩40歳(1724年)のとき。
梅岩は独自の商人道哲学を樹立し、後の石門心学を体系化します。そして、42歳(1727年)の時に黒柳家を退職し、45歳(1729年)で借家の自宅を開放し、商人・町人を対象に性別不問、紹介者不要、料金無料で樹立した商人道講話を始めます。文字よりも耳学問を重視し門弟は400人を超えました。
時は江戸時代、士農工商の身分制度が確立され、商人は最も卑しい職業とされていましたが、石田梅岩はこれを優劣序列ではなく職分(役割)であり、その価値は同じだと唱えました。
中でも長年の丁稚奉公で喝破したのは「商業の本質は交換の仲介業であり、その重要性は他の職分に何ら劣るものではない」を説き、蔑まれていた商人たちに自信を与え支持されました。
人として正しい道を歩めば、利益は後からついてくる。「先義而後利者栄」(義を先にして利を後にする者は栄える:荀子)という考え方を基本とし、儲けた利益は社会に還元すべきで、「主客合一」「顧客第一主義」を徹底すること、即ち、「顧客なくして事業なし」という考え方を広めたのです。
「二重の利を取り、甘き毒を食らい、自死するようなこと多かるべし」「実の商人は、先も立ち、我も立つことを思うなり」という梅岩の商人道、のちの石門心学が樹立されました。石田梅岩によって日本では世界に先駆けて300年以上前からCSやCSRを提唱し実践していたのです。梅岩は生涯清貧な人生を送り60歳(1744年)で亡くなった時に手元に残ったのは2つの本箱と食器だけだったと言われています。
石田梅岩といえば京都の老舗ブランド「半兵衛麩」(株式会社半兵衛麩)が有名で、家訓に「先義後利」「不易流行」とあります。今は玉置剛氏が12代目半兵衛を襲名されています。先代の11代目玉置半兵衛氏の著作で「あんなぁよおうききや」(京都新聞出版センター刊)があります。代々語り継がれて今に至る商売の本質を親が子に伝える語り口でとても分かりやすく書かれています。その中から一話「オー・・・の和尚さん」を抜粋してお届けします。
京都では今でも底冷えの寒風吹きすさぶ中を修行僧が草鞋に素足で托鉢に民家を回ります。その時に家の人は食べ物やお金を差し出します。その光景をとらえ、親が子に教えます。
「お金が欲しいと思ってる泥棒からは逃げたり、お金をわたさんと、『お金をくれ』言うてないオー・・の和尚さんにはわざわざ家から出て『おおきに、ありがとうございます』言うてお金渡してるやろ。
あんなぁよおうききや
商売もこれと一緒や、『儲けたろ』『人を騙してでも儲けたろう』思うたら泥棒と一緒でお金に逃げられて一銭も入らへんのや。その代わり、修行中のオー・・の和尚さんと同じように他人に喜んでもらうには冷とうても裸足で辛抱もせなならんのや。わかったか。よう覚えときや」
12代目玉置半兵衛氏は「半兵衛麩では石門心学は学問ではなく家の訓えとして代々継承されており、人として生きる上での気構えであり、商いの道の礎です。石田梅岩の歌に『風呂焚きのわが身は煤に汚れても人の垢をば流さんものかな』がありますがとても好きな歌です」とおっしゃっています。私も心して実践します。