No.1392 ≪「塙保己一」に学ぶ≫-2025.11.19

江戸末期の偉人で塙保己一(はなわ ほきいち:1746-1822)という人がいます。盲人にも関わらず「群書類従」666冊を編集し完成させ刊行した方です。その努力は晴眼者の私たちの想像を絶します。原稿用紙といえば20×20の400字が当たり前ですが、「群書類従」を印刷するにあたり版木を1ページ当たり20×20に統一したことが発端となって今に至っています。

塙保己一は1746年に現在の埼玉県本庄市に帯刀を許された農家の荻野宇兵衛の長男寅之助として生まれました。生来、体が弱く7歳の時に病気が元で失明しましたが、向学心は人一倍強かったので、母きよが寺子屋の主に「部屋の外でいいから講義を聞かせてほしい」と頼みました。主は寅之助が講義の一言一句をすべて暗記しているのを見て驚きました。
学べば学ぶほど向学心が高まり、江戸で学問したいと思いましたが、両親は反対するだろうと願いは胸に秘めていました。10歳の時、母きよが亡くなり形見として巾着が渡されました。巾着の中には23文入っていました。江戸では「太平記」の読み聞かせで生計を立てる人がいると聞き、それなら自分でもできると思い、15歳の時に母の形見の巾着を握りしめ江戸に出ます。学問にあこがれて江戸に出てきたものの盲人の仕事といえばあんま・鍼灸・音曲ぐらいしかありません。生来不器用な寅之助はなかなか上達しません。

縁あって盲人界のトップ、雨冨須賀一検校に入門し修行しますがやはり盲人職業の習得ですので身が入りません。絶望して自殺を図りますが、検校夫妻に助けられ、「お前は何をしたいのか」と聞かれ「学問がしたい」と答えると、検校は「わかった。泥棒と博打以外は何をしても構わないが、3年間たっても見込みが立たなければ国元へ帰す」という条件付きで認められたことで運が開けます。検校夫婦は寅之助の才能とそれを活かす努力にかけたのではないかと思います。
3年間の生活費と学費を支給していただいたので学問に集中できます。学問と言っても読むことができませんので、読んでもらったものを暗記して学ぶしかありません。ある時、旗本の奥方に『栄花物語』を読んでもらい、そのすべてを暗記するのを見た奥方が感動のあまり高価な『栄花物語』40巻を与えました。それが寅之助人生初の蔵書となりました。
寅之助の姿勢を見て感動した人がもう一人いました。検校の隣に住む旗本松平乗尹(ただのり)です。松平乗尹に誘われ、国学、漢学、神道、律令、医学、和歌を当代一の師匠について系統的に学ぶことができました。
盲人寅之助は頭角を現し、18歳(1763年)で衆分(しゅぶん:盲人の役職)、30歳(1775年)で勾当(こうとう:検校のNO.2)と出世し、雨冨検校の本姓である塙姓を名乗り、名を保己一と改めました。
寅之助21歳(1766年)の春、雨富検校は「旅をすれば体も強くなるだろう」といって、父と一緒に伊勢神宮、京都、大阪、須磨、明石、紀伊高野山を旅する2か月間の旅費を出してくれました。京都の北野天満宮を詣でた時に菅原道真公を守護神にしようと決めました。旅から帰ると見事に体が強くなっていました。その後も勉学に勤め、晩年の賀茂真淵にも入門しました。

40歳(1779年)の時、失われてゆく文書や史料が多くあるのを知り「群書類従」の編纂を決心します。盲人の保己一にとって無数の文献を弟子に読んでもらってそれを系統的に整理するのですから至難の業です。それでも持ち前の集中力と暗記力で事業を進め、ついに完成させます。40年かかりました。同時進行で「続群書類従」「続々群書類従」の編纂も進めていました。
44歳(1783年)で検校に出世し、54歳(1793年)の時に幕府の土地を借りて和学講談所を開設し後進の育成に努めます。和学講談所は幕府の昌平坂学問所の関連機関として官立の教育機関として動き出します。
編纂事業を継続していた76歳(1822年)のとき、志半ばで逝去されます。編纂事業は弟子や子供に引き継がれますが、明治になると和学講談所は廃止され、編纂事業は中止のやむなきに至ります。

時は移り、1909年に医師で国文学者の井上通泰が文部省の倉庫で「群書類従」の版木を発見し、渋沢栄一らと温故学会を設立して維持管理に勤めました。1921年に昭和天皇が皇太子の頃にケンブリッジ大学を訪れた際に親善目的もあり貴重な「群書類従」の寄贈を約束し、秩父宮(昭和天皇の弟)が届けられました。その後、ドイツ、ベルギー、アメリカにも寄贈されました。私の憶測ですが、この話題がヘレン・ケラーの母親の耳に入ったのではないかと思います。
そして1922年に「続群書類従完成会」が設立され、編纂途中だった「続群書類従」「続々群書類従」「史料編纂」が刊行されました。

塙保己一といえばヘレン・ケラーと言われるぐらい有名なエピソードですが、三重苦のヘレン・ケラーは幼少のころから母に「盲目の塙保己一を手本に勉強しなさい」と言い聞かされており、家庭教師のサリバン女史の努力もあってアメリカの偉人に成長しました。ヘレン・ケラーが憧れの塙保己一に会えたのは、1937年4月26日、渋谷の温故学会を訪れた時でした。人生の目標であった保己一の座像や保己一の机に触れて、「先生(保己一)の像に触れることができたことは、日本訪問における最も有意義なこと」「先生のお名前は流れる水のように永遠に伝わることでしょう」と語っています。

私たちはまだまだできることがたくさんありそうです。