No.1379 ≪鵬雲斎千玄室大宗匠の示寂(※①)に思う≫-2025.8.20

2025年8月14日0:42分、千玄室大宗匠(1923-2025)がお亡くなりになりました。102歳でした。これまで私を導いてくださった尊敬する師匠がまた一人鬼籍に入られました。
茶道の世界では、家元を襲名することが決まった時に千家の菩提寺である京都・紫野の大徳寺で修行し、得度して斎号をいただくことがならわしなっていて、千玄室大宗匠は鵬雲斎という斎号でした。縁あって茶道愛好家組織「沖縄今日会」と裏千家の「淡交会」会員でしたので、その謦咳に触れる機会は多かったと思います。
先代家元のことを裏千家では「大宗匠」と呼びますので、私たちもそのように呼んでいました。世が世なら畏れ多くもそのように気安く呼べる立場の方ではないのでしょうが、いったんお茶室に入れば国籍・身分・地位・人種・宗教・出自などの俗世の飾りは一切関係なく、権力者といえども丸腰で、亭主と客の対等な場で、時空を共有するのがお茶です。それが「今」という間を大事にする「一期一会」であり、「和敬清寂」(※②)の精神です。

※①亡くなった時の表現が沢山あります。得度された方は「寂滅」「涅槃に至る」「遷化」、禅宗で得度された方は「入寂」「示寂」、一般的には「逝去」「永眠」「死去」「他界」「永別」、神道では「帰幽」、キリスト教では「昇天」と実に多いです。大徳寺で得度されたので「示寂」としました。表現に誤りがある場合はどうかお許しください。
※和敬清寂とは、和は平和と調和、敬は互いを敬うこと、清は、嘘偽りや妬み嫉みのない清らかな心を持つこと。寂は何事にも動じない気持ちを持つ事を言います。簡素な表現ですが、いざそのようにあろうとするにはなかなか胆力がいります。

茶聖千利休(1522-1591)は、堺で魚屋(ととや)の屋号で倉庫業を生業とする商家に生まれ、田中与四郎と称していた17歳の時に茶の湯を学びます。19歳の時に父祖を相次いで亡くし無一文となった与四郎は堺にある臨済宗の南宗寺で参禅修行し、本山の大徳寺とも交流してゆきます。そこで若くして大徳寺住職となった10歳年下の古渓宗陳(こけいそうちん1532-1597)に出合い師事します。そして、次第に力をつけて盛り返します。応仁の乱(1467-77)が終息し、戦乱の世に移っていった当時、堺は日本最大の商都で、世界中の情報が集まり、貿易が盛んで経済が発展し、文化、中でも茶の湯が盛んでした。堺の豪商は同時に一流の茶人でもありました。戦国大名は積極的に茶人に近づき、茶人は権力に近づいて、次第に大きな勢力となってゆきます。堺の大手豪商は日本を平定し権力を掌握した織田信長に取り入り、後塵を拝した千利休は新興勢力の豊臣秀吉に目をつけ茶の湯を教えます。次第に力をつけてついに太閤になった秀吉に贔屓されたがゆえに、周囲の権謀術数の犠牲になり、秀吉の怒りにふれ理不尽にも切腹を命じられます。有名な大徳寺山門の木像事件です。そして千利休亡き後の後見人になったのが大徳寺の古渓宗陳です。千家と大徳寺のつながりを物語っています。

16世紀後半、ハプスブルク家のフィリップ1世がスペイン・ポルトガル国王時代に地球の東半分はポルトガルの領土とし、西側はスペイン領土にすると宣言し、日本にも宣教師を通じて入貢を命じたことが有ります。イエズス会の宣教師バリニャーノはこれを諫めてこう言いました。「堅固な守りの日本とは戦争しない方が良い。なぜなら、種子島伝来の鉄砲を改良して大量生産しており世界最大の鉄砲所有国だから」またフィリピン総督には「中国の征服は容易だが、日本は征服事業を企てる対象としては不向きである。国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので、征服が可能な国土ではないからである。」
日本を未開の島だから簡単に征服できるとやってきた西欧勢力の先兵である宣教師は、誠実で清潔で正直な国民性とあまりにも高い文化レベルと高度な統治能力に驚き、世界で唯一、征服ではなく共存の道を選択せざるを得なかったのが日本ではないかと思います。

大宗匠は、1943年に文系学生の徴兵猶予が停止になり、同志社大学の学生から海軍に志願し、士官教育を受けたあと海軍少尉として任官。戦局の悪化とともに「特攻隊」の一員に志願し、死ぬための訓練に明け暮れたそうです。
志願に当り上官から紙を渡され〇か×を書いて出せと言われたので「積極的に◎」と書いて出したそうです。
「だれも×とは書けませんよ、命令ですから」
お茶箱を持参し出撃前の前途有望な仲間にお茶を点てると、「うまいなぁ」「生きて帰れたら、お前のとこのほんまもんの茶室で茶を飲ませてくれや」と言い残し、出撃していったそうです。生きて帰れぬと知りながら。
1945年5月21日、ついに大宗匠にも出撃命令が下されましたが、直前になって取り消され別の基地への移動を命じられ、そのまま終戦を迎えました。なぜ、私だけがこんなに長く生きているのだろう。
大宗匠はおっしゃいます。
「『お国のため』と言ったって、本当はみんな死ぬのが怖かった。おふくろにもう一度、頭を撫でてもらいたい。抱きしめてほしい。そう願いながら、最後に『おかあさーん』と叫んで出撃していった。80年前のことを想うと、今もたまらない。せめて彼らの分も一生懸命生きよう。」
この国の行く末を考えたとき、「文化の価値」「間」「和敬清寂」の心、困難を乗り越えるのは『文化力』だとおっしゃいます。そして、茶の精神、茶心を世界に広めるために世界中を飛び回られました。

大宗匠が沖縄今日会のイベントで来沖された時、お迎えしたり案内したりする役を仰せつかりますが、100歳を超えて矍鑠とされ、さっそうと歩かれます。ついてゆくのに息せくぐらい早いです。そして、約1時間の講演がある時、手元に原稿を持たれることもプロジェクターを使われることもなく、様々な事例で話の寄り道はありますが、きちんと元に戻ってきて、時間ぴったりに締めくくられます。外国人がおられれば英語で話されます。懇親会では全テーブルを回り1人1人に声をかけられます。
毎年6月23日の沖縄の慰霊の日には、海軍の制服に身を包み、同期が眠る沖合に船を出し、船上から献茶式を生涯にわたって続けられました。

裏千家の会員の一人として、日本文化の総合芸術としての茶道、茶心をご縁のある方々に、特にこれからの日本をリードする若い方々に伝えてゆかねばならないと改めて誓いました。ご冥福をお祈りいたします。ありがとうございます。