2025年4月3日(日本時間)にトランプ大統領は「アメリカが輸入するすべての輸入品に一律10%の基本関税をかける」公約を実行し、さらに約60か国には各国別の状況に応じて上乗せする相互関税の課税を発表しました。日本には基本税率10%+相互関税24%の合計34%、また自動車は部品共に相互関税25%の課税となり、合計で35%となります。相互関税率の根拠は日本の対米関税障壁が46%なので、その半分を相互関税として課税するというものです。46%の計算根拠は2024年の対日貿易赤字(685億$)÷日本からの輸入総額(1482億$)=46.2%と示されています。
歴史上、日米における関税はペリー来航により締結された日米修好通商条約(1858年)が最初で、関税率は食料や建材が5%、それ以外の物品が20%、酒類が35%でした。それを考えると、今回のトランプ関税は全世界を対象にしていますのでインパクトがいかに大きいかがわかります。
第二次世界大戦後の国際社会は東西対立を如何にバランスさせるかが基調にありましたので、国連運営や防共を意図した自由貿易体制の構築が、圧倒的な経済力と軍事力と科学技術力をもつ覇権国アメリカのリーダーシップの責務でした。世界の警察官として全世界にアメリカの基地を展開し情報インテリジェンス網を張り巡らしました。
しかし、21世紀に入りソ連が崩壊して久しい中で権威主義国の中国のリーマンショック後の著しい成長は無視できないレベルまで来ました。トランプ大統領は、制度疲労を起こしている現在の体制はゼロクリアしてアメリカが復活する新たな世界体制に作りなおす必要性を感じていると思います。
トランプ大統領のとんでもない相互関税課税の発表は日本のみならず対米輸出国は大騒ぎです。日本国内でも「輸出が減り企業経営が成り立たない」「日本は自動車の対米輸出が3割もあるので25%価格転嫁はできないし、コストダウンも難しい」「景気後退は避けられない」と様々な悲観的な意見が飛び交っています。
主な対象国の関税は、中国は3月に引き上げた追加関税20%+相互関税34%で54%、EUは基本関税10%+相互関税20%で34%、インド36%、韓国35%、インドネシア42%、ベトナム56%、タイ46%。イギリス10%、ロシアは対象外となっています。トランプ大統領得意の「DEAL」(飲めないブラフ目標をかかげ、相手が降参せざるを得ない落としどころまで交渉する)とは思わない方が良いと思っています。世界秩序再構築の創造的破壊を目指していると思いますので。
しかし、日本は同盟国アメリカの政策で大変な目にあったことが度々ありましたが、その都度、痛みを伴いながらも知恵と工夫と努力で不死鳥のように乗り越え蘇ってきました。今回も相当の痛みを伴いますが、必ず乗り越えられることは間違いありません。私たち中小企業は巨大なインパクトに備え、合気道のようにそのパワーをうまく生かせるように準備しなければなりません。そのためには過去の教訓に学ぶ必要があります。
記憶をたどって私の経験を振り返りたいと思います。まず最初の大きなインパクトは、イザナギ景気の余韻が残る1971年8月15日に起きたニクソンショック(ドルの金本位制廃止と為替の変動相場制への移行)です。高校2年生の時の出来事でした。ドルが金の裏付けのない通貨となり、しかも1$360円の固定相場が変動相場に変わる。未熟な高校生だった私は円高、円安という概念すら理解できませんでした。今まで高根の花だった舶来品が安くなって買えるようになるという楽観的なものでした。
そして1973年10月の原油公示価格の引上げ(3$→5$)を皮切りに最終的に原油価格が4倍の12$まで高騰した第1次オイルショックが起きました。大学受験を控えた高校3年生だった私はオイルショックよりも過激派による「あさま山荘事件」(1972年2月)の印象が強く、社会不安が高まってゆく様相を感じました。大学生になっても正門や教室は過激派により封鎖され休講が続き、授業らしい授業はなく、友人と会うには麻雀荘か喫茶店か部室に行かねばなりませんでした。
しかし、実際に社会で起きていたのは戦後初めての「スタグフレーション」で、物価上昇と景気後退が同時起きる現象で、人間でいえば処方箋の無い難病のような状態でした。「奇跡」と言われた日本の戦後の高度成長は終焉を迎え、次第に長い不況に入ってゆきました。
この時に「日本列島改造論」を引っ提げて登場したのが田中角栄総理です。この計画により全国に高速道路網と新幹線が整備され、このインフラが現在の繁栄を支えてくれています。田中総理はロッキード事件で失脚しましたが、経済運営は低成長ながら低空飛行で推移しました。
私は1977年から就職活動を始めましたが、なかなか内定がもらえず、友人の中には早々に就職浪人を決め込んだ人もたくさんいました。就職浪人する余裕のなかった私は急成長していた外食産業に就職しました。その翌年、1979年1月のイラン革命を機に第2次オイルショックが発生し、このあたりから明らかに低成長経済に突入して、社会全体に活気がなく、不景気そのものでした。ものづくり企業は外需に頼るしかなく、高品質低価格の製品開発に力を入れて輸出に力を入れました。ソニーのウォークマンや任天堂のファミコンが大ヒットし、燃費が良くて故障が少ない日本の自動車が生産台数でアメリカを抜いて世界一になったのもこのころです。輸出に活路を見出して日本経済は次第に活気を取り戻し、日本的経営が評価されエズラ・ボーゲル博士の「ジャパンアズNO.1」が大ヒットしました。
(その2)に続く