驚きました、9月30日の自民党新総裁の会見に。
9月27日の決選投票でどのような思惑が働いたのかわかりませんが、石破候補がトップの高市候補に逆転勝利して新総裁に決まりました。意中の方ではありませんでしたが「正論をはいて筋を通す方だから何か変わるかもしれない」と喜ばしく思っていました。
ところが9月30日の会見をみて唖然としました。たとえ衆議院の過半数を占める与党の総裁とはいえ総理にもなっていない方が、前言を翻して10月9日解散、27日投開票を明言されたではありませんか。
前代未聞の事態です。その理由として投開票日から逆算すると全国の選挙管理委員会の準備に都合もあり4週間前の9月30日に宣言した方が良いからだというのです。なぜそんなに急ぐのか? 最も緊急を要する能登半島の災害復旧の補正予算も先延ばしにしてもやらねばならないことがあるのか? なぜ?という疑問ばかり。
正論を主張し続けたために党内では冷や飯食いをしてきた石破候補は5回目の今回の総裁選を最後の挑戦と位置づけ、38年間の議員生活をかけて故郷の神社の神殿の前で立候補表明されました。「裏金問題」「特定宗教団体との関わり」による自民党不信を「(総理になったら)早めに国民の信を問うが、政府が何をやろうとしているか国民がわからないままでは信を問えないのでせめて全閣僚が出席する予算委員会まではやらないといけない」とおっしゃっていました。また「支持率の高いうちに党利党略で解散するのは卑怯だ」ともおっしゃっていた方です。与党・野党・マスコミの批難ごうごうの火だるまになって汚名をかぶって短命政権リスクを負ってまでしてやりたいことは何か? 38年間、国政の中枢にいて権力の本質を知り尽くした方が、単なる保身で心変わりしているとは思えません。
「会社を変えたい」ならトップにならねば無力です。同様に国を変えたいなら総理にならねば無力です。きれいごとの正面突破では無理。ならば耐え難い汚名を着てでもトップにならねば何もできません。たとえなったとしても周囲は敵だらけで無数に準備されたトラップにかかっては破滅します。まして保身は論外です。「権力は絶対的に腐敗する」歴史の鉄則から大仕事したら引退が基本です。
もし、石破総理がそのような戦略の元でやりたいことがあるのかという目で主張を見ると、「もしかしてこれかも」という主張があります。「日米地位協定を(本気で公式に)改定する」、これです。歴代総理は自民党立党宣言「党の政綱」6.にある「憲法の自主改正」をリップサービスされますが、具体的に「日米地位協定」を政策の俎上に上げられた方は石破総理を除いて記憶にありません。在日米軍戦力の75%が集中する沖縄や横田、横須賀、岩国、佐世保等の基地周辺地域住民は日米地位協定の弊害は日常経験していますが、ほとんどの日本国民は無関心で無知です。
日米地位協定の成り立ちはGHQ占領が終了し、1952年9月サンフランシスコ講和条約への招待状を手にする少し前にさかのぼります。
アメリカが共産勢力に対抗する防共戦略上、地政学的に最前線にある日本を、占領終了後も軍事的に自由に使える権利を確保する必要性がありました。そこでアメリカは「GHQ占領終結に伴い、日本は武装解除しており安全保障面で他国侵略に対応できないので米軍に安全保障条約締結を求め、米軍はそれを受諾する」というストーリーを構築し、日本統治に関する条文作成をサンフランシスコ講和会議の20か月以上前から始めました。その過程で、講和条約と日米安保条約と日米行政協定(後の日米地位協定)に盛込む内容が精査され、最も特権的内容が、国会承認や国連への報告義務がない「秘密の了解」として日米行政協定に盛り込まれたのです。日米行政協定とは「我々が望む数の兵力を、望む場所に、望む期間だけ、駐留させる権利を確保する(ダレス長官談)」ことで、もちろん日本の法令は適用されません。日米地位協定の影響は飛行機を利用する多くの人が経験しています。それは「横田ラプコン※」「嘉手納ラプコン※」の存在です。「横田ラプコン」は羽田から新潟までの上空7000mまでの空域、「嘉手納ラプコン」は沖縄本島上空6000mまでの空域を米軍の許可なく飛行することはできません。米国領空なのです。ラプコンがなければもっと早くもっと安く飛行できます。(※ラプコン:RAPCON:Rador Approach Controlの略 )多少は見直しがありますが大半は1951年のままです。
こうして周到に準備された上で国際セレモニーは教科書に載っている通りの展開で、1951/9/8(土)10:30〜11:30 サンフランシスコ講和条約が豪華なオペラハウスで48か国と締結され、1952/4/28(月)に発効しました。4月28日は日本の独立記念日です。
ここからは教科書では習うことがありませんが外務官僚の孫崎氏が書籍にまとめています。要旨は「講和条約締結の数時間後、1951/9/8(土)17:00~『日米安保条約』及び『日米行政協定』が米陸軍基地内でひそかに締結されました。米側代表4名、日本側は吉田首相のみで、調印場所と時間が日本側に通知されたのが1951/9/7(金) 23:00。条例全文が開示されたのは1951/9/8(土)15:00。機密保持のため和文なし、原本は現場で提示されたのです。特権的条約を他の連合国(特にソ連)に邪魔されないように極秘で実行されました」吉田首相はほとんど監禁状態での締結に臨んだといえます。詳しくは「本当は憲法より大切な日米地位協定入門p43」(前泊博盛著)をご覧ください。
もしかして「(石破総理は)戦後誰もがタブーとしてきた日米関係の本質(日本はいまだアメリカの占領下にある)を変えようとしている。そのためには総理の座につかないと『日米地位協定の見直しをする』という国家としての公式見解にならない。真の独立国足りえない。そのためにはどんな泥被りもするし、太鼓持ちもやる」という意図かなと思うと、ここは日本の真の独立のためには応援しなければと思います。
もしそうなら、きっと国内外からものすごいバッシングと陰謀論のレッテルと組織的抵抗にあい四面楚歌の状況に陥るでしょう。その時にどこまで本気か見守り見極めたいと思います。