No.1324 ≪中小企業は「農夫の心」で開拓し「漁師の技」で深耕する(その2)≫-2024.8.7

2024年7月31日(水)に日本銀行は政策金利を0.25%に引上げ、アメリカFRBは利下げアナウンスをしました。その後、アメリカ景気後退懸念から週末に向けて世界同時株安となり、日本では週明けの8月5日(月)に為替がいきなり141円台まで円高になり、株式市場は4000円近く暴落しました。翌6日(火)には猛反発しましたが、市場が暴れています。ウクライナや中東情勢、アメリカ大統領選挙も混迷の度を増しています。ズームアウトしながられ静観しましょう。

さて、フジゲンストーリーの続きです。
ギターの音階の出し方もわからずに、外観や構造だけ真似て製造して、1000本もの返品をうけて創業半年にして富士弦楽器(現:フジゲン)は大赤字に陥り、危機存亡の淵に立った時、廃業するか継続するかの決断を求められた横内氏は継続することを決め、単身東京の大学教授の教えを請い、技術をマスターし、その後の製造は順調に推移し、受注も面白いように入り1年目は黒字決算で終了しました。

そのころビートルズやベンチャーズが人気で日本でもエレキギターブームがやってくる予感がありました。ザ・ベンチャーズの「ダイヤモンドヘッド」が日本で大人気になったころ、クラシックギターを生産していたフジゲンもエレキギターの開発を進め1962年には製品化に成功させていました。国内市場は回収問題もあり、次第に輸出にシフトしてゆくことになりました。
三村社長が市場調査を兼ねて渡米し市場調査の結果、有望市場であることと、直接貿易の道筋をつけて帰国しました。次第に注文がふえて一つの会社から500本、1000本と注文が入るようになりました。そこで、三村社長は、「アメリカ市場を拡大するにはニューヨークでの販売実績が必要だ」と横内氏に単身渡米しニューヨークでギターを売ってこい、「売れるまで帰ってこなくてよい」と送り出しました。

決断した横内氏はニューヨークに着きました。JETROからいただいた楽器販売会社リストの順番に電話で面談のアポイントを取のですが、英語ができない横内氏は来る日も来る日も電話を掛けても通じません。アポイントが取れない。町に出て電話のかけ方、会話の仕方を横で観察して真似てみる。しかし、聞き取りができないのでわかったふりをして「フフン、フフン、OK」といっていると電話が切れていたことが何度かありました。そこで英会話を練習するために公園や通行人の誰彼なしに英会話の相手になってもらいました。少しはわかったので、電話でアポイントを取りますがやはり一向に取れません。
悲しみのあまり、路上にうずくまり松本に置いてきた妻や子供の顔を思い出して声にならない叫び声をあげて泣いていると、「なぜ泣いているのか」と声をかけてくれる紳士がいました。たどたどしい英語で事情を説明すると、「私はハリー、海軍病院のドクターだ。OK、うちに来なさい。妻が英語を教えてくれるだろう」といって横内氏をハリー氏の自宅に連れて行ってくれました。ハリー氏もすごいですが、異国の地で見ず知らずの外国人についてゆく横内氏も大したものです。
事情を聴いていた奥さんは横内氏を歓待してくれて、2週間つきっきりで横内氏に英会話を教えてくれました。「わからないのにフフンとわかったふりをしてはいけない。わからないときは、You say againとかAnother wordといえばよい。それは決して恥ずかしいことではない」と教えてくれました。聞き取れなかった英語が少しづつ聞き取れるようになり、会話がスムーズにできるようになると、ハリー氏は「ヨウイチ、もう大丈夫。明日からあなたの仕事を始めなさい」と言ってくれた。

ハリー氏夫妻と別れを告げてアパートに戻り、電話帳の片っ端から電話をかけてアポイントを取りました。アポイントは何の問題もなく取れました。ハリー氏夫妻のおかげです。早速訪問すると商談はとんとん拍子に進み契約が決まりました。ニューヨークの他の楽器店からも受注できました。ボストン、ワシントン、フィラデルフィア、ニューオーリンズ、マイアミと足を延ばして営業しました。英語を話す営業マンはどこでも歓迎され面白いように受注が取れました。累計で8000本、20万$(現在価格3.24億円)になっていました。大喜びで帰国して生産に取り掛かかりました。1965年、横内氏38歳の時です。

営業的には輸出体制を構築するために貿易部を独立させ、ロスに駐在員を派遣し、増資も行いました。一方、生産も大量の受注をこなすのは並大抵のことではなかったのですが、深刻な問題が発生した。部品の外注先メーカーがエレキギターのブームに便乗し完成品を生産することになり、部品の納品数量を減らしてきたのです。やむなく、外注から自社生産に切り替え、一貫生産体制をとる方針を決定しました。しかし、従来の工場敷地では狭すぎて生産ができません。新たな工場用地を確保しなければなりませんがなかなか思うように進みません。なんとか、新工場の確保と建設にめどがつきましたがコストも上がってしまいました。さらに折からのブームの陰りが見え隠れするようになり、コスト競争力をつけるために大胆なコストダウンを図らねばならなくなりました。生産性改善のだめの設備導入を行い原価低減はそれなりの成果を上げた。苦境に陥ったメーカーからは「下請けになりたい」とひっきりなしに言ってきた。しかし、資金繰りは青息吐息の状態です。

三村社長はギター専業にこだわらず得意の木工技術を使った製品の多角化をおし進めました。結果は大失敗で損失を拡大するだけでした。責任を感じて三村社長は単身渡米して営業しましたが、結果は惨憺たる状態で帰国しました。会社は資金繰りがひっ迫し、金融機関に融資を依頼するも良い返事はもらえません。安値での買収話も出だす始末です。良い条件での合併話があり横内氏は独断で進めていましたが、役員会の猛反対に会い頓挫してしまいました。
すっかり意気消沈した三村社長は会社経営する意欲をなくし投げやりになってしまいましたので、横内氏が社長に就任することになりました。1969年、横内氏42歳の時です。

社長に就任した翌日、金融機関から融資すると連絡が入りました。あれほど足しげく社長と通った時はけんもほろろだったのに横内氏が社長に就任すると対応がコロっと変わったのです。理由を聞くと『横内氏なら』とのこと。前社長との確執でやめていった社員も戻ってきました。これなら生き残れると意を強くした横内社長は赤字解消のための再建計画(生産性30%UP)を立案し、幹部会議で発表しました。
ところが、社員の猛反発に会い、意を含んで説明しても、人が足りない、残業代が欲しいといいたい放題言い出したのです。横内社長はついに「勝手にしろ」と啖呵を切って家にこもってしまったのです。(「その3」に続く)