No.1323 ≪中小企業は「農夫の心」で開拓し「漁師の技」で深耕する≫-2024.7.31

ナイナイ尽くしの中小企業が成長するには営業力が必要です。中でもトップの営業力は不可欠です。しかし、経営者のだれもが営業力があるわけではありません。1960年創業のゼロから世界一企業(1986年達成)に導いた農業出身のトップのものの見方考え方はとても参考になります。

長野県松本市にギター生産世界一のフジゲン(富士弦楽器)という会社があります。横内祐一郎氏(1927~)が三村豊氏と共同で1960年に創業されました。フジゲンを創業するまで横内氏は戦後の代用教員をやめて農業をやって成功しておられましたが、その農業もやめて楽器製造事業を始められたのです。

1947年のGHQの農地改革で不在地主の土地が没収されることが決まり、母親が「私の代で土地を失うのはご先祖様に顔向けができない」と懇願されて嫌でいやでたまらない農業を20歳になった横内氏は継ぐことになりました。
日夜の重労働に辟易していたある日、ナスの種をまいていると3歳の息子さんが「ナスはいくつできるの?」と聞いてきました。考えたこともなかったので答えられません。数人の篤農家にも聞きましたが「30個ぐらいじゃないか」というあいまいな返答で正確なことは誰も知らなかったのです。人に聞いてもわからないなら自分で勉強するしかないと専門書を買って、首っ引きで研究したところ、種が大事だとわかり、すぐに京都の種苗会社に出かけて、一番たくさんできるナスの種を購入して栽培すると、なんと100個もできました。ベテラン百姓でも30個ぐらいなのに、ド素人がやって100個できた。作物の持つ不思議な可能性に驚き、農業が面白くなったのです。

今度は飼っていた乳牛もやり方次第ではもっと乳が出るのではないかと気づき研究してみました。紀伊国屋書店で乳牛の専門書を探したがなかったのでアメリカから取り寄せてもらって研究しました。高価な英語で書かれた専門書を英和辞書を片手に研究したところ、エサが違うことが分かりました。それまでは大豆かすを使っていましたが専門書には大豆が良いと書いてあったので、大豆を与えてみると牛は見向きもしない。もう一度専門書に当たってみると豆乳で与えているという。そこで工夫して豆乳を作り、与えると牛は喜んで飲んでくれました。専門書を見ながら一所懸命に育てた結果、今まで18リットルだった搾乳量が2倍になりました。
加工所から「牛を増やしたのか」と聞かれ、今まで通りだというと驚き、「やり方を教えてくれ」と要請されましたが、それを断り東京のホルスタイン協会に連絡して係員を派遣してもらうことにしました。すると「高等登録」の認証を得ることができ、生まれた子牛は通常の5倍以上の高値で売れたのです。
(ちなみに、最近話題の牛が勝手にやってくるロボット搾乳方式だと60リットルまで可能だとか、しかも無人で)

工夫して成功すると面白くて仕方がない。重労働の水撒きも工夫して自動水撒き機を作ると作物が良く育った。やることなすこと成功し、収入も大いに増えました。好事魔多し。1959年、高名な学者の講演会で「もうすぐ農作物は輸入自由化の時代になる。そうすると日本の農家は全滅する。昭和初期からずっと日本の農業政策は間違っていた。不況が来ればブラジル移民を進めたがみじめな棄民政策だった。日本は工業化社会に進むしかない。だから、農業などさっさとやめて街に出て働きなさい」と言われた。それを聞いた横内氏は、帰って母親に農業をやめたいと伝えた。農業をやってくれと懇願した母親は絶対反対すると思っていたが、「それが良い。お前なら何をやっても成功するよ」と賛成してくれ驚いた。さりとて、あてがあるわけではないので何をしようかと一所懸命に考えた。横内氏32歳。

そこで思いついたのが松本で製造されているバイオリンを作ることだった。なぜバイオリンかというと、鈴木メソッドの開発者が手作りして、音楽院も繁盛していたからだ。
友人に相談すると賛成してくれて共同出資者となる三村豊氏を紹介してくれた。社名を日本一の富士山にちなんで富士弦楽器と命名し、1960年に会社を設立した。牛小屋がバイオリン工場になり、製造機械も導入し、バイオリン職人と工場長を採用し、見よう見まねで着々と製造準備が始まりました。
三村氏は「本格製造する前に、まずマーケットリサーチをやろう」といって、高給の営業マンを採用して全国の楽器店を回らせました。リサーチから帰ってきた営業マンの報告は驚くべきものでした。
「バイオリンは商売になりません。買うまでに時間がかかりすぎて顧客の要求が厳しい。作るならギターです。若者がギターを求めてあふれかえっています」という。
ギターなど見たこともない。楽器店で買ってきて、見よう見まねで作ってみた。国内でも後発で、しかもド素人集団だったけれど、それなりのギターができたので県の品評会に出品すると1等賞をもらった。三村氏と二人で東京をはじめ全国の楽器店に売り込みに行きました。見栄えが良かったギターはすぐに3000本の大量受注につながり、工場は大忙しで生産し、最初の1000本を出荷しました。
ところがしばらくすると、全品返品で戻ってきたのです。「音程が合わない不良品だ」というのです。返品されたギターの置き場もなく雨に濡れてみじめな姿になっており、やむなく焼却処分することにしました。燃える火にみんなで泣いて詫びました。会社は危機存亡の淵に立たされたのです。廃業するか継続するか。横内氏は継続を決断し、その後の行動は早かった。東京工大の先生の門をたたいて、事情を説明すると、教授は「音階理論も知らずによく1000本も作ったものだ」とあきれ返った。教授の難解な指導にド素人の横内氏は必死で音階理論なるものを習得しました。
松本にかえって再製作したところ、良品が完成した。今度は飛ぶように売れて、業績は赤字を一掃し、黒字化できたのです。ギター製造世界一への一歩を踏みだしました。1961年、横内氏34歳の時です。(次号に続く)