12年前の2011年3月11日(金曜日)14時46分。マグニチュード9.3という世界最大規模の地震が発生しました。世にいう東日本大震災です。警察庁の調べによると、2021年3月現在、死者15,899名、不明者2,523名、負傷者6,157名で戦後最大の被害。2012年9月の自治体調査によると全壊家屋129,391棟、半壊家屋265,096棟、一部破損家屋743,298棟で合計約114万棟が被害を受けました。お亡くなりになった方々のご冥福をお祈りするとともに被害にあわれた方々の平安を祈ります。
岩手県、宮城県、福島県の東北3県は壊滅的なダメージを受け、消失したGDPは約16〜25兆円で阪神淡路大震災の約2倍以上。12年たった今も帰還できずにおられる避難者が3.8万人もおられます。地震及び津波の被害だけだともっと早く復旧したでしょうが、廃炉が決定している福島原発が大きな影を落としています。廃炉が完了するのは早くて2050年と言われています。
政府は2023年1月13日に福島原発に貯蔵している廃炉水を夏ごろ放出を始めることを閣議決定しました。廃炉計画は着実に進んでいますが、まだまだ気が遠くなるような長い年月を必要としています。
処理水保管タンクは約1000基137万㎥の保管が可能ですが、既に132万㎥使用済なので、後の余力は5万㎥。1日の発生量は大幅に減少したとはいえ約130㎥あるので最長で後1年で満タンになります。しかし、梅雨時になると水量が増えるので恐らくキャパシティオーバーのリミットは約150日ぐらいと考えたほうが良いそうです。放出については国際的にも国内的も多くの懸念が表明されていますが、放出処理水の線量は、科学的には自然界に存在する放射線量を大幅に下回ります。ちなみに日本のトリチウム排水基準は、1Lあたり6万ベクレル、WHOの飲料水ガイドラインでは1万ベクレルです。東電はタンクの処理水を大量の水で薄めて1500ベクレル以下にして放出するので国の規準の1/40となります。廃炉水の放出が完了するまで数十年かかるといわれています。
死を覚悟した「FUKUSHIMA50」と呼ばれる故吉田昌郎所長とその仲間達の命がけの行動が無ければ東北の地は数百年間にわたり人が住めない土地になっていました。それは、次の故吉田所長の言葉からも明らかです。
「格納容器が爆発すると、放射能が飛散し、放射能レベルが近づけないものになってしまうんです。ほかの原子炉の冷却も、当然継続できなくなります。つまり、人間がもうアプローチできなくなる。福島第二原発にも近づけなくなりますから、全部でどれだけの炉心が溶けるかという最大を考えれば、第一と第二で計十基の原子炉がやられますから、単純に考えても『チェルノブイリ×10』という数字が出ます。私は、その事態を考えながら、あの中で対応していました。だからこそ、現場の部下たちのすごさを思うんですよ。それを防ぐために、最後まで部下たちが突入を繰り返してくれたこと、そして、命を顧みずに駆けつけてくれた自衛隊をはじめ、たくさんの人の勇気をたたえたいんです。本当に福島の人に大変な被害をもたらしてしまったあの事故で、それでもさらに最悪の事態を回避するために奮闘してくれた人たちに、私は単なる感謝という言葉では表せないものを感じています」(門田隆将著「死の淵を見た男」356頁)という。
門田隆将著「死の淵を見た男~吉田昌郎と福島第一原発の500日~」をもとに故吉田所長の行動から当時の状況を振り返り、記憶にとどめたいと思います。
2011年3月11日の地震発生時、津波で全電源喪失した原子力発電所内は真っ暗闇となりました。原発の安全対策の三原則は「止める」「冷やす」「閉じ込める」ことですが、立っていられないほど激しい地震の揺れで原発は自動停止し、三原則の「止める」は無事に対処できました。次は「冷やす」です。全電源喪失で通信網が途絶している中で情報を集めて判断すると手動で「冷やす」しかありません。消防車を使って放水するのです。被害を受けていない消防車は1台しかない。すぐに自衛隊に災害派遣要請をして、消防車を2台手配しました。現場社員は20Kg近くある防護服を身に着けても10数分で生涯許容量に達する高濃度放射能が充満する真っ暗闇の原子炉内で「冷やす」ための水の通路を確保するための作業を行いました。この判断が、未曽有の災害を、ギリギリのところで、最悪の事態に至らせずに収束させることができたのです。
3月12日、1号機水素爆発。半径20km圏内の住民に避難指示が出ました。3月13日、3号機冷却不能。3月14日、3号機水素爆発。2号機の格納容器圧力が最高圧力を超過。3月15日、4号機原子炉建屋が爆発。半径30km圏内の住民に避難指示が出ました。3月16日、4号機で火災発生、3号機で白煙噴出、と立て続けに、事態が悪化してゆきます。外部電源が復帰したのは3月22日。
テレビ会議で本店、保安院、原子力安全委員会と調整するだけでも厄介なのに、政府・官邸までかかわってきます。挙句の果てには、専門家でもない「時の総理」が、自衛隊のヘリコプターで現地に来るというのです。それでなくとも、刻一刻と東北消滅、日本消滅の危機が迫りくる中、対応しなくてはいけない故吉田所長の心中はいかばかりだったでしょうか。高濃度放射能に汚染されたグランドに着陸したヘリコプターから、放射能を遮断している免振重要棟に、総理一行が移動するだけで汚染されてしまいかねません。まして、作業員のマスクや防護服が不足している中、たまりません。
2台の消防車をつないで原子炉に放水する水はすぐになくなったので、あとは海水を使うしかありません。海水に切り替えて注入したところ、官邸から海水注入を中止するよう指示が入ります。爆発するかもしれないので『待て』というのです。冷やさないとメルトダウンを起こす。故吉田所長は「本店から、海水注入中止の指示が来るかもしれない。その時、俺は本店に聞こえるように『注入中止!』と命令を出す。しかし、それを聞き入れる必要はない。お前たちはそのまま海水注入を続けろ。いいな」と所員に言いました。海水使用の是非を議論する官邸と本店に翻弄されることなく、表面上は指示を聞きつつも、実際には、やるべきことをやり続けたのです。もし、官邸や本店の指示に従っていたのでは、東北消滅の可能性が高かったのです。
3月14日、3号機が水素爆発を起こし、2号機の格納容器の圧力が最高圧力を超えた時点で、故吉田所長は協力会社の従業員を退避させ、その後の2号機での爆発を機に「最少人数を残して、退避」させました。そして、残るべくして残った69名の幹部は後に「FUKUSHIMA50」と呼ばれ、誰もが生きて帰れないと覚悟を決めていました。彼らがいうには、「吉田さんとなら一緒に死ねる」。それほど固い絆で結ばれていました。
原発を守り抜く、それはとりもなおさず、日本を守ることに他ならないのですが、そのために、一緒に死んでくれる人を選ぶ故吉田昌郎氏は、リーダーの本分をいかんなく発揮したことは間違いありません。故吉田昌郎氏は、原発事故の8か月後、食道がんが見つかり、手術しましたが、脳内出血を起こし、2度の開頭手術の後、2013年7月9日に58歳の若さでこの世を去りました。
東日本大震災の時に固定電話や携帯電話がストップし安否確認すらできない状態になった時に、通常回線に依存しないで活躍したのがtwitter(2006年初版)でした。その後国内ではLINEがサービス提供をはじめ現在に至ります。人類の大きな犠牲から生まれた智慧と言えます。1995年の阪神大震災では固定電話がパンクした時PHS、携帯電話が一気に普及したことを考えると5不(不足、不安、不便、不満、不快)はいつの時代にも大きなニーズをいえます。
東日本大震災の教訓からBCPは多くの企業で採用され活用されています。コロナ禍の時にもBCPが大活躍しました。しかし、ロシアのウクライナ侵攻に伴う地政学リスクのサプライリスクまではカバーしていない企業が多かったため取り組みが始まっています。「あの日を忘れない」ことで、わが社の経営に生かせることがたくさんあります。そうすることで、犠牲になられた方々に思いをはせるとともに、将来のリスクを最小限に抑えることができます。「まさかこんなことがわが身に起きるとは」と嘆いてからでは遅いのです。