人はただ生きているのではありません。何かしら目的を持ってこの世のこの国に生を受け、生きています。目的とは使命と言い換えることもできます。その生を受けた目的を発見し、達成する上で仕事は最も具体的なものです。そしてこの世を離れるまでの限られた時間を使うことができます。これを寿命といいます。寿命の長さは勝手に決めることは出来ませんが、長くて100年程度あります。100年は87.6万時間。又は5,256万分。又は31億5360万秒です。この時間を使って、多くの人とかかわり、それぞれが次代につなげることで会社や国は永遠に存続するのです。あなたが会社や国を作った最初の人であるならば、どうやって永続させるかを考えねばなりません。100年後も1000年後も続いている会社や国を作るにはどうすればよいか?
それには最高のお手本があります。それは日本です。「やまとごころ」という風土です。
ご存じのように、日本は現存する世界の国の中で最も長い歴史を持っています。それも途切れることなく王統が続き今上天皇で126代目に当たります。世界にはもっと古い建国は多数ありますが、日本以外はいずれも崩壊し消滅しました。
日本の建国は、古くは「古事記」「日本書紀」に記されています。その元本は「ホツマツタエ」(秀真伝とも)という古文書で、20世紀後半に発見されました。ヲシテ文字という象形文字に似た文字で、5 7 5 7 7の31文字の短歌形式で記述されています。「古事記」には和歌に語らせる場面が無数にあるのはその影響かもしれません。
漢字が朝鮮半島から輸入されるまで日本には文字がなかったといわれますが、ヲシテ文字は存在していたのです。
それは別の機会で詳述したいと思いますが、今日は建国の話です。
「古事記」によれば、アメノミナカヌシの登場からイザナギ・イザナミの国生みを経て、スサノオの降臨した出雲の繁栄と国譲り、その後のニニギの高千穂への天孫降臨、5代後にカムヤマトイワレヒコが誕生します。
そして、カムヤマトイワレヒコ(後の神武天皇)は日向から16年以上の年月をかけて、多くの犠牲を伴い、自らの命の危険に陥りながら、苦難の末に橿原の地で、建国宣言をして天皇に即位します。今から2680年前のことです。これは神武東征と呼ばれています。
建国の志を「八紘一宇」すなわち「世界中の荒れたる隅々までも一つの家として人類は皆家族として互に手をつなぐという目的を実現するために、畝傍山の東南、橿原の地に都をつくる」と高らかに宣言したのです。
ここにヒントがあります。人類皆家族として手をつなぐという大きな志を実現する宣言を行っています。
そのために天と地をつなぎ、国民を「おおみたから」と呼んで最も大事な宝物としました。平成天皇が被災地で正座して被災者に向き合い、ねぎらいの言葉をかけておられるのはその表れで、やまとごころの体現です。
日々、神々への礼拝と宮中の多くの祭礼が行われ、それが現在進行形で継続しています。皇室のご祭神を祀る伊勢の神宮へも車止めから歩いて参詣されます。今上天皇の即位礼や大嘗祭は昔ながらのしきたりで行われていますし、皇族の方が成人されたときは神武天皇、明治天皇、昭和天皇の御陵に参詣されます。私たちはそれを日々目撃しています。理屈を超えて、当たり前に継承されてゆくこの風土こそが継続のポイントです。
また、同様に伊勢の神宮はじめ全国の神社は20年毎に遷宮が行われます。出雲大社は60年毎に遷宮が行われます。そのために、大きな神社は100年後の遷宮のために植林し、手入れをします。山の手入れは自然災害を未然に防止し海を豊かにします。遷宮も風土です。この継続性がやまとごろこを育てています。
国民向けに編纂された「古事記」にはカムヤマトイワレヒコが橿原宮で建国し初代天皇に即位されたことは記されていますが、いつ建国されたかについては記述がありません。外交文書として編纂された「日本書紀」には、BC660年1月1日(旧暦)だと推測される記述があります。この記述をもとに明治政府が1874年に2月11日の「紀元節」として制定しお祝いしました。第二次世界大戦後GHQの占領政策「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(War Guilt Information Program、WGIP)」で発令された神道指令で紀元節が廃止されました。日本がサンフランシスコ講和条約で主権を回復した1952年からしばらくたった1955年に自由民主党が結党され、その後1957年に自民党の議員立法として「建国記念日」制定が提案されましたが野党の反対で廃案。その後、9回目にして、「建国記念の日」と「の」を入れることでやっと成立したのが「建国記念の日」です。
アメノミナカヌシに始まる日本の歴史を否定し、自虐史観を植え付けることで「やまとごころ」の消滅を意図して取られた占領政策「WGIP」でも日本人の精神性が消えることはありませんでした。
江戸時代の国学者で「古事記」を千年ぶりに復活させた本居宣長は、「やまとごころ」を「敷島の大和心を人問はば、朝日に匂ふ山桜花」と表現しました。
吉田松陰は「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」と表現しました。
明治に入り、アメリカ人の夫人と国際結婚したキリスト者の新渡戸稲造は、「宗教を持たない国民がどうして道徳を身に着けることができるのか」と問われて即答できず、その回答として著した「武士道」は英語で出版され、時のアメリカ大統領ルーズベルトを日露戦争の仲介役を買って出るほどの親日家にし、若き李登輝総統の座右の書となりました。その中で、新渡戸稲造も武士道とは本居宣長のいう「やまとごころ」だと述べています。「やまとごころ」はエリートであった武士の光栄として始まったけれども、次第に国民全般の霊感となったと述べています。その象徴としての桜は、西洋やキリスト教を象徴する美しさの裏に棘を隠し持つ薔薇と比較して、「我が桜花はその美の下に刃をも毒をも潜めず、自然の召しのままに何時なりとも生を棄て、その色は華麗ならず、その香りは淡くして人を飽かしめない」と表現した。
つまり、無から有を生じた始まりを大切にすることは、未来を確実にすることです。始まりを否定することは今を否定することにつながります。世界に冠たる住友グループも、1630年ごろ、住友正友が京都で書物と薬の店「富士屋」を開業し、商人である前にヒトとしての人格陶冶を諭した「文殊院旨意書」を家訓として残し、それが今も住友グループの精神的支柱となっています。
三井グループも創業者の三井高利の「宗寿居士古遺言」、その子三井高平が兄弟で相談し1722年に「宗竺遺書」を制定して事業の根本精神にしています。
また、松下幸之助は創業13年目にあたる1929年に「綱領と信条」を制定し、さらに3年後天理教本部を訪れ真使命を霊感し、闡明式を盛大に行い水道哲学を披露しました。それが松下グループの繁栄の基礎になりました。
継承すべき風土を持つことは大きな喜びです。よい風土はよき人を育みます。歴史書のように権力者によって都合よく書き換えられることも屈服させることもできません。