同窓の友人が伝説の大阪市長関一(せきはじめ)一家が1918年~1921年に猛威を振るったスペイン風邪と向き合った経緯を小文にまとめて届けてくれました。その中でスペイン風邪の猛威を表現している部分があります。
「内務省衛生局編『流行性感冒「スペイン風邪」大流行の記録』(1921)によれば、第1回流行(1918年8月~1919年7月)では、2116万人(国民の4割)が感染、死者25万7千人、第2回流行(1919年10月~1920年7月)では、241万人が感染、死者12万7千人、第3回流行(1920年8月~1921年7月)では、22万人が感染、死者3千人、総計で、患者数2380万人、死者38万8千人、致死率は、1.63%となっている。」
ご存じのように1914年に勃発し4年間続いた第一世界大戦末期に、一説によるとアメリカ・カンザス州の米軍基地で発生したといわれるスペイン風邪は3波にわたって世界中に流行しパンデミックを引き起こしました。
当時の日本の人口は5470万人で、首都東京府330万人、大阪府256万人の時代です。その時に、国民の43%にあたる2380万人が感染し、死者38.8万人を出しているということは、今の日本の人口1.26億人に換算すると、なんと、感染者は5470万人、死者は89万人になります。いかに大きな被害だったかがわかります。
一方、経済面では、第一次大戦中は戦場である欧州への物資輸出で、戦後は破壊されつくした欧州の復興需要を満たすために機を見るに敏な企業が生産に次ぐ生産、投資に次ぐ投資を行い日本は空前の好景気となりました。しかし、「好事魔多し」「禍福は糾える縄の如し」で数年後には欧州が復興してきます。すると途端に今度は過剰生産に陥り、手堅い経営をしていた企業以外は破綻を余儀なくされます。商社、金融機関、重化学企業、軒並み破綻しました。いわゆる反動不況です。1920年代は慢性不況から世界恐慌につながってゆく時代です。
大戦景気と反動不況の中でスペイン風邪パンデミックが起きていたのです。感染症やウイルスに対する知識や治療法がない「未知の病」に対して、権威当局も手探りで、報道も行き届かず、ましてSNSのような媒体もない時代ですので試行錯誤しながら果敢に挑戦する姿勢がありました。もし、あっという間に情報が拡散する今の世で同じことが起きたとしたら私たちはどう行動するでしょうか?
私の父は大正4年(1915年)生まれ、母は大正10年(1921年)生まれですので、スペイン風邪流行期に父は3歳~5歳、母は生まれたばかりのころです。良く無事に生き抜いてくれたので今の私が生まれたと思うと奇跡としか思えません。感謝してもしきれません。
話は変わりますが、ご縁があって兵庫県宍粟市波賀町の「フォレストステーション波賀」に行く機会がりました。
100万坪(東京ドーム約23個分)の広大な敷地にアウトドア施設が点在し大自然を満喫できる場所です。地図で見ていただくとわかりますが、兵庫県はほとんどが森で、その中でも県央に位置する波賀町は森林比率94%、高齢者比率42%だそうです。
「3密」になりようがない大自然の中とはいえ、コロナ禍で利用者は激減しており、厳しい経営が続いているようですが、責任者の方は「知恵の出しどころで、黙っていても人が集まる時代ではないので、工夫が必要です。失敗してもこれ以上ひどくなることはないのでいろんな挑戦ができます。ドローンも飛ばし放題です。地産地消の食材を使った優秀な料理人がつくる料理は人気を呼んでいます」と前向きで明るく素晴らしいと思いました。道の駅事業や特産品製造事業等に挑戦し、若者がたくさん働いていました。
話を聞きながら福井県池田町の「冒険の社」を思い出しました。毎年3%人口が減る町で、1980年4500人→2010年3000人→2021年2400人。しかも急激に進む少子高齢化で老年比率は約45%。面積の森林比率は92%を占め、ほとんどが兼業農家で、過疎が進む典型的な日本の農村です。このネガティブな環境を逆手に取って、無いものねだりをするのではなくあるものを活かす、「ここでしかできないことをやろう」と町長のアイデアで森を活かした施設「冒険の杜」を5年前にOPENしたところ、人気となりました。職場ができると若者が戻ってきました。若者が戻ると町は活性化します。
変革を起こすには「ワカモノ・ヨソモノ・バカモノ」が必要です。固定概念や既成概念がないからです。失敗経験もありません。ややこしいしがらみも、小難しい知識や手続きも知りません。道一筋のベテランからは想像もできないようなアプローチでやります。ベテランが昔失敗したやり方も今風の道具を使って今風のアプローチで挑戦します。失敗すれば別のやり方を考えてまた挑戦します。それが良いのです。時代も道具も技術も考え方も仲間も変化しているのですから。