No.1384 ≪機能と価値の違いと価格の関係≫-2025.9.24

AI(人工知能Artificial Intelligence)は秒進分歩で改良され、次々に新しい機能が付加されたソフトが誕生し、週間単位で陳腐化が進んでいます。これにより私たちの仕事の進め方の意味合いが大きく変わってきています。
例えば、「講話録を作成する」場合、講演を録音して、一言一句文字起こしをして、体裁を整え、誤字脱字や話の流れを踏まえ章立てして、講話者の添削・修正・承認を得て初めて印刷できました。出来上がれば関係先に配布するのですが、ここまで最速で1か月かかりました。
今はAIを使って、講演をビデオ撮影しながらリアルタイムでドキュメント化しますので、講演者にその場で添削・修正・承認を得て印刷会社にデータで送り製本するとともに、画像編集の上YouTubeで公開するまで3日もかかりません。人間がやっていた工程はほぼ自動化できます。製本しなければその日のうちに完成します。

日常の経営活動の中で会議や打ち合わせの記録はとても重要な業務ですが、今は人間がやっています。多くの会社では幹部会議、ISO会議、品質会議、工程会議、営業会議等の〇〇会議は最低でも10程度はあるのではないですか? ZoomやTeams等のリモート会議の場合は録画&AIコンパニオン常駐ですのでテキスト化と要約まで自動でやってくれます。他にも様々なAIソフトがありますが、画像まで求めないのであれば日本製AI「Notta」はおすすめです。これは会議参加者が自分のスマホをマイク代わりにするので誰が何を話したか明確ですし、発言順に記録してくれますので会議の後で「言った・言わない」「そういう意味じゃない」という日本独特の悪しき会議文化を払しょくできます。会議の要約や決定事項や次回までの宿題や期限を整理するのはChatGPTにやらせれば簡単です。
さらに、AIに司会進行させることもできるようになります。今は会議の準備や資料作りや進行シナリオを作り、アバターが人工音声でナレーションするレベルですが、設定したストーリーに誘導して合意形成するファシリテーター機能を標準装備したソフトが登場するのは時間の問題です。例えば、土地開発の時に必須の住民説明会や公聴会の運営はベテランファシリテーターでないと時間内に収まらないのですが、感情的にならないAIだと何日でも付き合ってくれますので向いていると思います。

さて、ここからが今日のテーマです。このようにAIを使うことでだれでも簡単にリアルタイムにほぼ無料で精密に画像・音声・文字で正確に記録できますが、これは業務の機能の部分ですね?
シナリオ通りのナレーションで会議を進行し時間管理も完璧ですが、参加者の満足度はいかがでしょうか、会議の付加価値は上がったのでしょうか? 生身の人間社会においてもっとも重要な心理的安全性を確保できるでしょうか? 場の空気を読んで発言者を指名したり注意したりできるでしょうか? 「会して議する。議して決する」「納得づくの合意形成」これが会議の本来の役割であり、求められる価値です。残念ながら、まだまだ人間の能力が必要です。つまり、機能だけ求めるのであればほぼ無料でできますが、価値を求めると高額になります。機能と価値をはき違えるととんでもないしっぺ返しを食らいます。

私は裏千家淡交会の会員で、お茶名も専任講師の資格もいただいていますが、いまだに先生に手ほどきしていただいています。所作や手順は同じなのですが何かが違うのです。
部分の違いは顕微鏡レベルの微差ですが、全体の違いは望遠鏡レベルの大差で別物です。
お茶を点てるというお点前は誰でもできます。熟練すれば上手になります。ところが家元のお点前は別物です。何が違うかといえば美しさが違うのです。和風のしつらいの喫茶店で誰が点てたかわからない抹茶は1000円でいただけますが、お茶室で先生が点てていただいた抹茶は数万円しますし、家元が点てられれば値段のつけようがありません。
お茶を点てるという機能は物質的な価値ですので価格は安くできます。しかし、だれに点てていただくかという価値は精神的な価値ですので高額になります。いわば指名料ですね?

例えば、ロボット掃除機ルンバは見える場所のごみを取る、汚れを発見して拭くという機能を搭載しています。掃除のプロは見えないところまできれいにする、その方の美しい心が空間そのものを清浄にします。だから高くても価値があります。

経営においても同じことが言えます。会社はコスト、効率、生産性という物質的な量産効果を追及することで利益を生むことができます。これは機能です。より量産できる企業が登場すると価格逓減します。より大規模な大量生産をする組織には負けてしまうのです。ところが価値は価格逓増します。なぜだかお分かりですね。他にまねができない「何か」があるからです。それは歴史に裏打ちされた日本及び日本人の文化ではないかと思っています。このあたりを考えてみませんか?
「わかるかなぁ、わかんねぇだろうな」(1975年 松鶴家千とせ)