1941年12月8日未明の真珠湾攻撃で日本がアメリカに宣戦布告し太平洋戦争が始まりました。あれから今年で80年がたちました。日本の近現代史はまだ謎が多く、様々な証言や公開された公文書及び書籍や論文によって徐々に明らかになってきています。昨日は真珠湾攻撃の責任者であった山本五十六元帥の自筆の日記や備忘録など膨大な関係資料が親族から提供され公開されました。山本五十六元帥はもともと非戦論者といわれています。1934年に始まった日米英仏4か国によるロンドン軍縮会議予備交渉の日本代表として参画した山本五十六は国内の対米強硬派勢力に対峙して私案をもって臨みますが受け入れられず、結局、日本は軍縮会議から脱退することになり、日米の空気は一気に緊張します。その後の10年で日本は開戦し、敗戦しました。
この時代の日本の状況は1931年9月に満州事変が発生し、1937年7月には中国の国共内戦に翻弄される形で盧溝橋事件が起きました。1954年生まれの私が受けた教育では、日本史・世界史の近現代史はほんの数時間しか触れられませんでした。また受検問題にも出ることが少なかったのでズボラな性格の私はほとんど勉強することなく知識すらなかったのが実情です。関心を持って勉強を始めたのは、恥ずかしい話ですが40代になってからです。
「愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ」といいます。賢者たらんと勉強している今日この頃です。
そこでとても参考になるのが次の2書です。
一つは加瀬英明氏とヘンリー・S・ストークス氏の共著「なぜ米は対日戦争を仕掛けたのか」(祥伝社刊)です。ポイントのみ要約したいと思います。
1940年9月、米暗号解読班は日本の全外交暗号と一部の海軍暗号の解読に成功し、この解読機は「MAGIC」と命名された。
FDルーズベルト大統領はイギリスが滅亡すればアメリカも滅亡するので、なんとか参戦してイギリスを支援したいが、アメリカ国内の孤立主義が厚い壁となり、参戦できない状況にあった。なんとか日本にアメリカを攻撃させられないか模索し、経済制裁の発動に動いていった。
そこで日本がフランスの了解を得て北部仏領インドシナに進駐し、さらに日独伊三国同盟を締結した。これを聞いてFDルーズベルト大統領は祝杯をあげたとか。10月には屑鉄の対日禁輸、12月には鉄と鋼鉄の対日禁輸を実施。
1941年4月、日本はもともと開戦の意志はなかったので、日米関係打開に向けて必死の外交交渉を展開していた。その一方でFDルーズベルト大統領は7月18日に「日本爆撃計画JB-355」を承認した。発動されることはなかったものの、この時点でアメリカは開戦の決断をしたことになります。
7月26日に、在米日本資産凍結を発動し、石油の全面禁輸。連合国(英蘭)は同調し、日本はドル資産が使用不能になってしまった。基軸通貨(ドル)を使えないということは物資購入ができないことと同じだった。ABCD包囲網完成である。
7月28日に日本はやむなく南部仏領インドシナに進駐し、資源確保を図った。同時に日本は諦めずに和解の道を探り続けていた。8月28日に、近衛首相がFDルーズベルト大統領とのトップ会談を提案し、大統領は快諾したものの、引き延ばしに引き伸ばし実現することはなかった。
アメリカは日本の動きを暗号解読機「MAGIC」で大本営連絡会議の内容はすべて解読していたからだ。
11月25日にFDルーズベルト大統領とハル国務長官とスチムソン陸軍長官は日本艦隊が択捉島単冠湾に奇襲攻撃の為に集結したのを知って「米に過大な危険を招かぬように配慮しつつ日本から攻撃させるように仕向ける」と決定した。そして、11月26日、ハル国務長官は野村・来栖大使に全面撤退を要求する有名な「ハルノート」を手交した。
ハワイ真珠湾奇襲を察知したアメリカは空母2隻(エンタープライズ、レキシントン)を真珠湾から公海に移した。
12月2日、日本海軍発「新高山登れ1208」はMAGICで解読され、FDルーズベルト大統領に報告された。
12月6日、ハルノートに対する対米覚書(宣戦布告)もMAGICで解読され、FDルーズベルト大統領に報告され、直ちにハワイ以外の司令部に伝送された。ハワイのショート司令官が受け取ったのは奇襲終了後6時間後だった。
12月7日、FDルーズベルト大統領は天皇に「平和を求めている」と親電を送った。
12月8日、野村・来栖は指示された手交時刻(奇襲時刻)を守らず、1時間後に手交した。ハル国務長官は全てMAGICで知っていたので、読むふりをしたあと激怒し両大使を追い払ったのです。
もう1書はエドワード・ミラー氏の著作「オレンジ計画」「日本経済を殲滅せよ」(新潮社刊)です。以下要約です。
1936年に民主党のFDルーズベルト大統領は抗日の蒋介石政権を通じて日本を攻撃し、蒋介石の真の敵は共産党なので、ロシア・イタリアから航空機を購入し、アメリカは空軍顧問を派遣し、ドイツは陸軍顧問派遣して共産党対策をおこなった。
1937年に勃発した盧溝橋事件に対し、アメリカは中立国の立場にあり中国に関与できないため、空軍兵から義勇兵志願させて中国に派遣し、間接的に関与し、彼らは帰国原隊に復帰したのです。
そんな中でFDルーズベルト大統領が再選を果たし、イギリスを支援するためにナチスに参戦したいが世論は厭戦ムードでむつかしい。そこに中国共産党の謀略による盧溝橋事件が起きて絶好のチャンス到来となった。日独伊の好戦的独裁国家を伝染病に例えて「隔離すべき」と演説(隔離演説)し、参戦ムードを搔き立てた。
日本が米を攻撃すれば世論が参戦に傾くので日本に先制攻撃させることを計画し、揚子江航行中のパネー号撃破事件を起こしオレンジ計画(日本破産計画)始動したのです。
1938年5月20日、中国空軍機3機(実際は米軍機で米兵パイロット)が熊本・宮崎上空に侵入し、ビラ投下しました。領空侵犯です。
7月には日本の中国空爆に対し、航空機の「道義的禁輸」実施し、1939年日米通商航海条約の破棄、12月には「道義的禁輸」品目追加し、資源面から日本を包囲します。
私たちは歴史に学びインテリジェンスを磨いてゆかないと世界から取り残されてしまいます。
今こそ「賢者は歴史に学び愚者は経験に学ぶ」に学ぼうではありませんか?