No.1155 ≪都合よく「忘れる」罪 その1≫-2021.4.1

今回は少しボヤキが入ります。我慢して読んでいただけるうれしいです。
最近の国会議員や高級官僚のいわゆるエリート層の不祥事を見ると、「誰か大事な人」の存在や自分に課されている「何か重要な使命」を忘れないとできない行為にあきれてしまいます。外出禁止、時短営業を国民及び事業者に強制している緊急事態宣言下で、その立法や行政を担う政権中枢にいるベテラン国会議員(自民党松本議員、田野瀬議員、大塚議員、公明党遠山議員)の深夜の銀座豪遊や、厚生労働省の高級幹部の送別会及び深夜遊興の感覚はどうすればできるのか不思議です。コロナ禍で激増している飲食・観光事業者の倒産や自殺をただの統計数字とみているのでしょうか? 絶句するような不祥事が出てこないことを願うばかりです。
安倍政権下の森友加計問題、菅政権下の総務省接待疑惑等は許容範囲ですが、今回はアウトです。
彼らはものの見事に戦後GHQの日本占領政策「日本人消滅作戦GWIP」の申し子ではないかと危惧しています。日本人を日本人たらしめていた「廉恥心」「正義心」「誇り」「使命」「自覚」「良心」「善悪」「後ろ指をさされない意識」が見事に欠如し、目の前の「強い存在」に忖度し波風を立てないことを優先する能天気な人になっています。インテリジェンスのかけらもありません。国会やマスコミで猛バッシングされているさなか、次のスクープを狙う無数のカメラマンのいるところで堂々とこのような行動がとれるのですから。

彼らは東アジアに起きている国際情勢の変化が理解できているのでしょうか? 香港の一国二制度は有名無実化され、尖閣諸島は中国の領土だと外相会談の記者会見で公言されても笑顔で終始し、中国公船の武器使用が合法化されても対応を取らず、次は台湾、尖閣、沖縄が視野に入っているのに何ら危機感が感じられないのはどういうことでしょうか? 知識があってもいかせなければかえって障害になります。私たち民間人以上に多くの機密情報に接する人たちですので、多すぎて情報マヒが起きているのかもしれません。
台湾有事や尖閣有事はそこにある危機ですが、果たして判断し、決断ができるのでしょうか? 国会議員は国民に選ばれた「選良」であり、公務員は国民に奉仕する「公僕」です。当初は、より良い国にするために正義感に燃え、使命感を果たすために、この仕事に就いたのでしょうが、今は、「強い人」に忖度して高い報酬にありつく手段に変質しているようです。今の平和は多くの尊い犠牲の上に成り立っていることを思い出して身を引き締めてほしいと切に願います。

皆さんは日本のシンドラーといわれた杉原千畝(1900-1986)という方をご存じだと思います。
1985年1月にイスラエルより「ヤド・バシェム賞(ナチス・ドイツによるユダヤ人絶滅政策から自らの生命の危険を冒してまでユダヤ人を守った非ユダヤ人の人々を表す称号)」を日本人で唯一受賞したことで世界に知れ渡りました。
お父さんが医師だったので、医師になることを求められましたがそれが嫌で受験の時に白紙回答を出して拒絶し、早稲田大学に入学し、卒業後は外務省入省されました。満州事変後の1935年に満州駐在時代に白系ロシア人と結婚し、ロシア正教会信徒になりました。霊名はパウロです。当時の社会状況は緊迫の度を増しており、第二次世界大戦への道を突き進んでいました。ヨーロッパではヒトラー率いるナチスドイツが破竹の勢いで勢力を拡大しており、ヨーロッパと極東に領土を持つロシアの動向が大きなカギを握っていました。
そのような中で杉原千畝が関東軍よりスパイになることを強要され、外務省外交部を辞任し、妻と離婚することになりました。離婚慰謝料は莫大でその支払いで赤貧生活を余儀なくされている時に出会ったのが日本人女性尾崎幸子で、結婚しました。
1938年ドイツのユダヤ人迫害が加速し、在欧日本大使館はユダヤ人の受入拒否を通達していました。
その後、軍部の要請で杉原千畝は日本人が一人もいないリトアニア・カウナスに公使館を設立し代表になりました(1939-1940)。その背景には、同盟国ドイツのソ連攻撃が本当に実行されるかどうかを見極めるためにリトアニアとドイツ国境の情報収集が必要であり、ロシア語が堪能な杉原千畝が適任だったのです。
本当にドイツがロシア攻撃をするなら、満州の部隊を南下させることができますので、その情報収集は極めて重要な意味を思っていました。
1940年ごろまではオランダがオランダ領経由でリトアニア難民のビザを発給したのですが、ドイツ侵攻により中止しました。残るルートはシベリア鉄道を経由した東部ルートしかなくなってしまったのです。
1940年7月18日、唯一開設されている日本領事館にユダヤ人難民が殺到しました。当時のリトアニアはロシア占領下にあり、本省は受け入れ拒否を通達していました。
妻と相談した杉原千畝はビザを発給することにしました。それは8月31日に最後の列車がリトアニアを出発するまで続き、その数は約6000名。
その後、同盟国ドイツからもロシアからも連合国からもマークされ、欧州を転々として帰国することになりました。1947年に退職勧告を受け、外務省を退職し、1965年商社蝶理のモスクワ支店代表を務め、1975年帰国し、1986年7月31日逝去されました。

先人の取った行動を検証することでインテリジェンスを身に着けてゆき、忘れてはならないことを忘れない人間になろうと思います