No.1237 ≪念ずれば花開く≫-2022.11.17

坂村真民(1907-2006)さんをご存じの方も多いと思います。鍵山秀三郎氏や森信三氏がとても評価されている詩人です。私は今から37年前の1985年ごろ、前職(タナベ経営)の副社長をしておられた太田琴彦氏から教えていただき、当時76歳だった「真民さん」を知りました。しかし、当時は単なる知識として知っていただけで、心の奥深くまで腹落ちしていませんでした。様々な出会いがあり「念ずれば花開く」「二度とない人生だから」のフレーズに出会い、今では私の呼吸の一部になっています。
旧所名跡にたたずむ「念ずれば花開く 真民」と彫刻された石碑を見かけられた方も多いのではないでしょうか? 石碑は海外も含めて730基以上に上り、いまも増え続けているそうです。

次に「真民さん」と再会したのは、顧問先の社長から「よかったら読んでください」と「真民さん」の個人詩集「詩国」を送っていただいた時です。以後、最終回の500号まで毎号送っていただきました。個人詩集「詩国」は「真民さん」が一遍上人の万行を引き受けられたのが縁で、40年間毎月1号も欠かさず無料で友人知人に郵送されていました。2004年2月の95歳の時、500号を達成し、この号を最後に「詩国」は終わりました。そして、翌月から「鳩寿」という詩集を刊行されました。しかし、15号を最後に終了しました。2006年12月に97歳で永眠されたからです。

「真民さん」は熊本県で5人兄弟の長男として生まれ、10歳の時にお父さんをなくしました。お父さんは校長先生をしていましたので大きな屋敷に住んでいましたが、亡くなると一気に赤貧状態になりました。当時は女性が自立できる時代ではありませんでしたので、一家バラバラにされるところをお母さんが親族の反対を押し切り、5人の子供を女で一つで育てました。「真民さん」は成績が良くてもお金がないのでやむなく一番学費の安い伊勢の皇學館に入学し、卒業しても就職先がないため、日韓併合で日本の領土となった朝鮮半島にわたり、女学校の教師をしながら朝鮮民謡協会を作り活動しました。「旅情」「恋の並木道」「アリランの歌」などのヒット曲の作詞はそのころの作品です。

しかし、敗戦で引き上げざるを得なくなり、熊本に戻りましたが、職がないため、友人のつてで愛媛県の南予、今の宇和島にわたりました。熊本では南予地方の事を「振り米の里」(臨終の時、竹筒に入れた米を振って、ご飯を腹いっぱい食べたつもりで送ったというぐらい貧しいところ)と言われ、そんなところに行って食べてゆけるのかと皆に心配されたそうです。この移住が転機となり、「真民さん」が詩集「ペルソナ」を出すようになります。

縁は不思議なものです。「どう生きるべきか」と悩んだ「真民さん」は宇和島の臨済宗座禅道場に参禅し、師と出会います。河野老師、足利老師、山下住職。そして、そのご縁で杉村春苔尼、利根白泉医師。求道を続ける中で、お母さんの口癖「念ずれば花開く」と同じ意味の仏典引用句に出会います。「信心清浄なれば花開いて、仏見奉る」という句です。出典を探し求めて、全100巻からなる経典を網羅した「大蔵経」を一字一句、何度も探しましたがありません。すると「もしかして解説書を探せばあるのではないか」と閃き、「大蔵経」の中の「華厳経」にあたりをつけて解説書を探しました。そして、遂に見つけることができました。深海で真珠を見つけたように喜びました。

しかし、根をつめて探し求めたため、目は失明寸前で、医師からは絶対安静を宣告され、体は衰弱しきって、膵臓と胃にがんが見つかり治療をしなければならなくなりました。困っている「真民さん」を知り、杉村春苔尼は祈り続け、利根白泉医師は漢方と指圧で直すべく全身全霊を注いでくれました。しかし、一滴の水も喉を通らなくなってゆきました。あまりに苦しいので利根白泉医師に往診してもらいました。医師は「真民さん」を見て大きな声で叱りつけました。「真民さん、あなたはどうして生きようとしないのですか」

ハッとした「真民さん」は傍にあったカステラを口いっぱいにほおばり飲み込みました。「食べれた」 それ以降、病気が嘘のように体から去ってゆきました。杉村春苔尼と利根白泉医師に命を助けられたのです。

古本屋で「ペルソナ」を読んだ森信三氏は、とても感動し、手紙を書きました。著名な森信三氏から手紙の交流が始まりました。そして、森信三氏が実践人の家セミナーで宇和島に来られた時「真民さん」に遺言を伝えました。「あなたが人々を導くのは死後のことだ。だから、覚悟を決めて今までの詩集を一冊の本にまとめなさい」と助言したのです。師と仰ぐ森信三氏の遺言アドバイスとはいえ、高校教師の給与にその余裕はありません。
しかも、高校教師も定年退職する時期にきていました。子供はまだ小さいのでお金がかかります。どうしょうかと思っていると、その状況を「詩国」で知った読者で出版社の社長夫人が、「うちで出版させてください。ちょうど、当てにしていなかったお金が入りました。これで出版できます」と手紙をよこしてくれました。
そして出版されたのが「自選坂村真民詩集」です。アドバイスした森信三氏は「コレデニホンガスクワレル」と電報をよこしてくれました。

「真民さん」は参禅の過程で一遍上人を知り、知れば知るほどわが師と慕うようになりました。時宗の開祖一遍上人は武家の出自にもかかわらず、熊野権現の教えを大衆に説くべく裸足の生者となり、「南無阿弥陀仏」の札を60万枚配ることをわが身に課し、寺を持たず粗衣をまとい裸足で旅をつづけ、生涯下座に生きた聖人です。
「真民さん」は一遍上人にあこがれ、一遍上人が255,724人に配った札の残り、348,267人に個人詩集「詩国」を送り、60万の聖願を万行しようと決心しました。それが、「詩国」の始まりです。

「真民さん」を愛した方々には鍵山秀三郎さん、一灯園の石川洋さん、作家の神渡良平さん、はがき道の坂村道信さん、掃除の会の田中義人さんがおられます。どなたもご縁をいただいております。私の京都事務所の近くに洛北の名刹で吉野大夫が眠っている「常照寺」があります。その常照寺には「念ずれば花開く」石碑の第一号があります。これもご縁ですね。経営者にとって、念ずることはとても大切なことです。「人生、思うようにならない」と思っているとそのような結果を導いてきます。将来の不安を持っていると必ずと言ってよいほどその不安が的中してしまいます。それではいけません。経営者たるもの、社員や家族の幸せ、ご縁のある方々の発展、地域の明るい未来、より良い日本、希望に満ちた世界を信じて、念じて、念じて、念じ続けましょう、花開くまで。