No.1222 ≪小栗上野介忠順に見る内憂外患時代の生き方≫-2022.8.3

今の日本の立ち位置は戦後最も難しい局面にあり、100年の計をもって決断しなければならない機にあると思います。1951年9月に開催された日本の主権回復を話し合うサンフランシスコ会議では国連が機能していたので良かったですが、今は国連が機能していませんし、国際社会の調停機能がマヒしています。目先の利害得失だけで決断したのでは道を誤るのではと危惧しています。

この決断の難しさは幕末から維新の動乱期によく似ているのではないでしょうか?
当時の世界は産業革命を経て科学的に近代化を達成した英米仏蘭独露の列強国を中心に産業と軍事を利用して他国の領土をわがものにする帝国主義時代でした。一方日本は250年以上にわたって鎖国政策をとっており、列強国は手つかずの「黄金の島ジパング」を手に入れようと虎視眈々と戦略を仕掛けてきました。
国内は幕藩体制がゆるみ征夷大将軍の権威が地に落ち尊王攘夷派が入り乱れ百家騒乱となり薩摩藩や長州藩、会津藩、土佐藩といった有力藩主は藩益拡大を目指して活発に行動しており先行きは極めて不透明でした。
朝廷は親幕派の第121代孝明天皇、幕府は世継ぎが難航した上、病気がちの将軍ばかりで、老中の権力争いもあり迷走していました。第12代家慶は天然痘の持病もありペリー来航の10日後に熱中症で死亡、13代家定は5年間の短命政権で、第14代家茂は結核で20歳で病没、第15代慶喜は意志薄弱な貴公子で、威勢よく決断しても「いざ、ここぞ」という時にいつも崩れてしまいました。

そんな中で由緒ある三河武士で旗本の小栗上野介忠順(ただまさ1827~1868)は8歳の時から安積艮斎に学び、剣術は直心影流免許皆伝、砲術、柔術、山鹿流兵学の達人で、そのサムライ魂はひときわ光彩を放っていました。横井小楠との交流で日本は海軍の充実が何よりも大事だと教わり、海軍増強を念願し行動しました。幕府の金庫は空っぽなのに世界最強のイギリス海軍を買い取る妄想まで持っていました。次第に幕府内で頭角を現し様々な役職につき実績を出しました。

幕府はペリーによる日米和親条約、ハリスによる日米修好条約を立て続けに締結し、その批准書交換は日本の要望でワシントンで行うことになり、小栗上野介忠順(ただまさ)は使節団77名の監督官としてポーハタン号で渡米することになりました。幕府はもしもの時のために咸臨丸を随行させました。咸臨丸の船長は勝海舟、乗組員には福沢諭吉やジョン万次郎が乗船しました。使節団一行はアメリカで大歓迎を受け、世界最先端を行くアメリカの科学技術文明や文化、政治制度を目の当たりにして、日本も一日も早くアメリカのようにならねば植民地化される危機感を持ちました。最大の目的は米ハリス領事との交渉に負けて1:3という不利な通貨交換比率を受け入れたために日本の金が大量に流出している現状を是正する事でした。これをフィラデルフィア造幣局の実験で見事に解決しました。時の老中は、困った時は小栗上野介忠順(ただまさ)が解決してくれると奉行に取り立て実績があがると罷免することを繰り返します。勘定奉行、海軍奉行、陸軍奉行、外国奉行等なんでも丸投げし、都合が悪くなると罷免する老中を恨むことなく日本のために粉骨砕身働きました。

アメリカで小栗上野介忠順(ただまさ)は、船は買えても造船所やドックがなければ維持整備できないと何の役に立たない事、国を守るのは少数の武士ではなく町民を中心とした軍隊であること、ガス灯が整備すれば夜中でも明るくて治安維持が可能なこと、大量輸送には蒸気機関車による鉄道がすぐれている事、情報通信には郵便事業を導入する事、政治家やリーダーは選挙で選ぶ方法がある、統治には郡県制が効率的で優れている事などを学び帰国後これを実行に移すことになります。明治政府は小栗上野介忠順(ただまさ)が準備したレールの上を走ったに過ぎないことがわかります。

渡米は太平洋を横断しましたが、帰国は大西洋からインド洋経由でした。途中喜望峰で給水寄港南したとき奴隷売買の現場に遭遇し衝撃を受けて、船に残っていた資金をはたいてアメリカ領事館に依頼して奴隷商人から奴隷を100名以上買いとり自由の身としました。船が出る時は解放された奴隷が皆見送りに来たとか。

徳川家の存続や幕府の延命よりも日本の発展のために何が必要かを考え、それを解決する方法を編み出し着実に実行に移すことで見事に成し遂げました。開港した横浜、長崎、函館での貿易を充実させて関税をかけたり、西洋諸国が喉から手が出るほど欲しかった絹製品、中でも蚕を育てる養蚕紙を輸出して莫大な資金を作り、最新鋭の軍艦や武器を購入し、それを訓練する西洋の指導者を雇い、大規模な造船所及び製鉄所を建設することに成功しました。長崎造船所はフランス人技師ベルニーが横浜造船所に次いで手掛けたもので東洋一の規模と最先端技術を誇るものでした。

最後の将軍についた慶喜は大政奉還を申し出て、王政復古後の新政権残留を目論みましたが、逆に官位や領土、特権すべて召し上げられてしまいました。それに腹を立てた慶喜は大軍勢を率い鳥羽伏見の戦いで薩長軍と交戦しますが、薩摩軍の準備していた錦の御旗をみて怖気づき、部下を放置したまま一人江戸に逃げ帰ります。残された兵士はたまりません。主君の命令で戦ったあげく賊軍扱いでひどい仕打ちが待っていました。あまりの無責任さに驚きましたが、小栗上野介忠順(ただまさ)は体制を建て直して薩長軍を迎え撃つ作戦を立て全軍が準備に入ります。しかし、直前になってまた慶喜が崩れます。薩長軍に恭順の意を示しひれ伏したのです。トップが戦場を離脱し敵陣に降伏したのでは兵は謀反人扱いになります。小栗上野介忠順(ただまさ)は、慶喜に諫言しますがその勘気に触れ役職を罷免され、故郷の権田村に隠居することになりました。しかし、新政府軍は小栗上野介忠順(ただまさ)を見逃しませんでした。探し出し、謀反の罪で親子ともどもとらえられ、取り調べもなく斬首されました。とてもさわやかな最期だったそうです。