No.1218 ≪森信三師の遺言≫-2022.7.6

経営者であれば一度は「森信三」という教育者の名前をお聞きになったことがあると思います。教育者として多くの教師や経営者に影響を与えた森信三師(1896-1992)は名言を沢山残しておられます。それも実践からほとばしる名言だけに迫力があります。詳しくは神渡良平著「『人生二度なし』森信三の世界」(佼成出版社刊)をお読みください。私が感動した名言を皆様と共有したいと思います。

「人生二度無し」
簡単明瞭に人生を言い尽くしておられます。人生は一度っきりなので真剣に取り組まねばならない。これを人づくりの場では、「教育とは流水に文字を書くような儚い業である。だがそれを岩壁に刻むような真剣さで取り組まねばならぬ」と喝破されています。流水に文字など書けないと多くの人がおっしゃるでしょう。しかし、森信三師はそこを一歩踏みこんで、岸壁に文字を刻むような真剣さで流水に文字を書くのだと言っておられます。一度でダメなら二度、二度でダメなら三度、儚い営みを続けることが人を育てることだとおしゃいます。
「我々のこの人生は二度と再び繰り返しえないものだということ。われわれ人間はいつ何時死なねばならぬかもしれぬということ。この二重の真理を切り結ばせて常にそれを踏まえていたら、我々も初めて多少は性根の入った人間になれると言ってよいであろう」
森信三師のご子息と旅行した時に師の手紙の書き方を教えていただきました。(コピー機の無かった時代でもあり)手紙を2通書いて一通は相手に出し、もう一通は手元に控えとして置いておかれたそうです。そこからはがき道の坂田道信師が提唱されている複写はがきが生まれたように思います。

「人間は一生のうち、逢うべき人には必ず逢える。しかも一瞬早すぎず、一瞬遅すぎない時に」
真剣に人生を生きていると、人はいつかどこかで逢うべき人に必ず逢えるから心配するな。一所懸命に前を見て前に進めばよい。その時が来れば必ず逢うべき人に逢えるから。
禅語でいう、啐啄同時、とでも言いましょうか。親鳥が雛が内側から殻をつついて破って出ようとする時に外から殻をちょんちょんとつついてやることです。早すぎても遅すぎても雛は死んでしまいます。人生にはそのようなタイミング(機)が誰にもあります。そのような親鳥のような師匠を求めましょうという意味も含んでいます。
安岡正篤師(1898-1983)の言葉を借りれば、縁尋奇妙多逢聖因、と言えましょう。その本意は、縁とは不思議なもので良い縁は良い縁につながり良い人との出会いがある、良い人に逢えば会うほど良い結果を連れてくる、縁とはまことに奇妙なものだという意味です。
森信三師は「人はすべからく『終生の師』を持つべし。真に卓越せる師を持つ者は、終生道を求めて留まることなく、その状、あたかも北斗星を望んで航行する船舶の如し」また「尊敬する者がなくなった時、その人の進歩は止まる。年とともに尊敬する者がはっきりしてくるようでなければ人間も大成は難しかろう」とも言っておられます。

「逆境は、神の恩寵的試練なり」
人生において逆境は万人に訪れます。大小難易を問わず逆境を経験しない人はいません。なぜ逆境が訪れるのか、逆境の意味を森信三師は神の恩寵、神の愛情と喝破されています。
「我身に降りかかる一切は、すべてこれ天意とお受けできる人間になる事」とも、「人間は、時あっては、毀誉褒貶を越える強さを持たねばならない」とも言っておられます。だから、人は「烈風の中をさゆらぎもせずに突っ切って進むような気迫を」持たねばならないのです。
孟子に、天の将に大任をこの人に降さんとするや、必ず、まずその心志を苦しめ、その筋骨を労し、その体膚を餓えしめ、その身を空乏し、その為す所を払乱せしむ(告子章句下十五)とあるように、天が大仕事をさせようとする人にはこれでもかこれでもかと次から次へと苦難を与え心を挫かせるもので、できない人にそこまでの苦境、逆境を準備しないと言っておられます。だから苦難は幸福の門であり、ありがたいことなのです。

「常時、腰骨をシャンと立てていること。これ人間に性根の入る極秘伝なり」
日ごろから腰骨をしゃんと立てる生き方をしなさいとアドバイスされています。椅子に座る時背もたれにもたれるのではなく椅子のヘリに座り腰骨を立てれば自ずと背筋が伸びる。姿勢が正されると心も前向きになるのです。これは誰もが経験しています。これを習慣化することです。
そうすると「人間の真の値打ちは、その人がどこまで『人のお世話』ができるかどうか、という一事に帰するともいえよう」という語にあるように、人のお世話をすること、行動する事が第一義なのです。「学問が人生の第一義ではなく、真に正しく生きることこそ人生の第一義である。従って、私にとって、学問上の一つのモットーは『論語』にいわゆる『行って余力あらば、すなわち以て文を学ぶ』というにある」ともおっしゃっています。

最期に次の言葉はとても重いです。
「『死』は人生の総決算である。肉体の朽ち果てた後なお残るものは、ただ、肉体が動いている間に為した真実のみである。すなわち、真に不滅なものをしるし得るのは、この肉体の働いている間だけであることを再確認しなければならぬ」
「『仏は何人にも仏飯を供したまう。唯それが立派な高楼にて供せられるか、また、茅屋にて供せられるか、はたまた獄裡にて供せられるかの差あるのみ』と。これはこれ、明治宗教界の偉傑たる清沢満之師の語にして、予はこの一語によってはじめて宗教的風光の一端に触れしと言わむ」

共に経営者道を流水に文字を書く如く真剣に歩もうではありませんか。