No.1202 ≪ウクライナに見る私たちのなすべきこと≫-2022.3.3

テレワークをしていた3月1日。TBS「ひるおび」でロシアのウクライナ侵攻のニュース報道で、キエフ在住のウクライナ人のボグダンさんの話を聞いて圧倒され感動しました。大国が圧倒的な武力にものを言わせて隣国ウクライナへ侵攻したロシアは失敗するのではないかと思いました。その人はとてもきれいな目をした30代の男性で、少年時代の10年を日本で過ごしただけあって丁寧で流暢な日本語で穏やかに時折笑みさえ浮かべ語っていましたが、LIVE中継とは思えない鬼気迫るオーラは覆うべくもなく、その内容は鳥肌が立つほど感動的でした。
「恐怖はありません。もう乗り越えました。命を失うかもしれない覚悟を一度固めたら落ち着くんです。私は比較的早くその気持ちになりました。自分の国を守るために戦うだけです」淡々と語る姿は、まるで新渡戸稲造の「武士道」に引用されている神戸事件の引責で切腹した滝善三郎を見た思いがしました。神戸事件とは神戸の兵庫開港にあたり警備していた岡山藩の隊列を横切ろうとしたフランス人水兵を制止したところ銃を持ちだしたので銃撃戦となり、新政府はこの顛末を兵隊長であった滝善三郎(32歳)を列強諸国(英仏米蘭)の検視役の前で切腹させることで外交的に幕引きを図った事件です。彼の犠牲によって日本は香港化を免れたともいえます。外国検視役の一人イギリス外交官のリップフォードは滝のあまりの威風堂々、凛とした切腹儀式の一部始終を「旧日本の物語」に生涯忘れえぬ光景として記録しました。そのウクライナ人男性に滝善三郎をみたように思ったのです。他にもキエフ在住の日本人の方々が同じようなことを言っておられました。「家族を避難させたら、ここに残って戦う」と。命を賭しても戦う大義がウクライナにはあるからだと思います。

彼によるとキエフ市内の様子はおおむね次のようなものでした。
「ゼレンスキー大統領はキエフに残り指揮を執っている。彼の言葉に4400万人の国民は阿吽の呼吸で自分のできることをやっている。溶接でバリケードを造る人、ロシア軍を混乱させるために街路の表示や交通標識を撤去する人、火炎瓶を作る人、日常通り働いているエッセンシャルワーカー。ひっきりなしに続く砲撃音の中でごみ収集車は今日も来たし、スーパーは今も営業している。大統領及び政府を完全に信頼し行動しており、大統領の支持率は今や95%近く、国全体が一心同体となっている」

恥ずかしながら、私はまだ「死」を受け入れるような場面に遭遇したことがありません。豊かで安全な日本にいてテレビのニュース報道でみるだけで、まるで国益中心で完全に腰が引けている欧米諸国のようで、肚の座り具合は彼の足元にも及びません。
彼はこうも言っていました。「クリミアが併合された2014年以来ロシアとは8年間にわたり戦いが続いていますが、ウクライナが注目されることはありませんでした。今回日本の方々に関心を持って報道されるだけでも感謝しています」
「戦時中の行動の仕方は第二次世界大戦のころから代々引き継がれていますので、皆慣れています」
「インフラやプロバイダーがこんな中でも生きているのはウクライナの技術者の底力だと誇らしく思います」淡々と話す言葉にものすごい説得力と力強さを感じました。特攻隊員やペリリュー島、硫黄島、アッツ島で戦った日本人とダブらせて見てしまいました。

いま問題が発生している黒海北西エリアの国々は東ローマ帝国崩壊後、帝国諸国の勢力争いに巻き込まれ、幾多の戦争で領土が分割されたり統合されたりしました。転機となったのは西進するオスマン・トルコに対抗して、東ローマ帝国の継承者を名乗るロシアの南下政策がぶつかり、第一次露土戦争(1776-1774)でロシアが勝利し、「ギリシャ正教徒の保護権」を獲得してオスマン・トルコ領内へ勢力を拡大したことです。その後、1852年にフランスのナポレオン3世がオスマン・トルコの支配していたエルサレムの聖地管理権を獲得すると、様々な外交交渉、思惑と裏切り、権謀術数の限りを尽くし、クリミア戦争(1853~1856年)が起き、最大の海軍基地セバストポリが陥落し、ドイツとオーストリアの仲介でパリ条約を締結し終止符をうちました。クリミア戦争は産業革命を経験していなかったロシアの後進性を露見し、ヨーロッパにおける発言力を低下させてしまいました。
この時に敵味方の区別なく傷病兵の看護にあたったのが白衣の天使ナイチンゲールで今の看護師精神の始まりとなりました。

また、この混乱に乗じてアヘン戦争で国力の弱っている中国の利権獲得を目論んでいたアメリカはペリー提督を派遣して燃料補給基地として利用するために日本に開国要求しました。明治維新の始まりです。
日清戦争(1894-1895)で日本の領土となった遼東半島を三国干渉することでまんまと手に入れて我がものとし、ロシアは極東の南下政策を加速することで日露戦争(1904-1905)がおき、またしても敗北しました。
今度は欧州での南下政策を進め、1914年にバルカン半島で勃発した第一次世界大戦では連合国として参戦し、ドイツ・オーストリア同盟国と戦い勝利しました。
その最中に起きたロシア革命によりソ連が誕生し、第二次世界大戦を連合国側で参加し勝利をおさめ、勢力を拡大したソ連ですが、1954年にフルシチョフが生まれ故郷のウクライナに純ロシア領土ともいえるクリミアを帰属させてしまいました。当時はソ連領土内でのことなので政治的には何の問題も発生しませんでしたが、1991年にソ連が崩壊し、ウクライナが独立したことで、今回の問題が遠因となりました。

このような大国の思惑に翻弄されることの無い日本人として生まれたことに感謝するとともに、日本をしっかりと守り育て次代に誇れる国にしてゆかねばと思います。まずは仕事を通じて会社を成長させ、人を育て、社会をよくすることだと痛感しました。それが国際貢献であり、世界平和に直結することだと思います。